79年目の終戦の日。

私の父は旧帝国海軍中尉にして空母「翔鶴」の整備担当の乗組員だった。

マリアナ沖海戦で翔鶴が沈没した際、

駆逐艦「朝雲」に救助され本土に帰還、藤沢の病院で怪我の治療後、鹿児島県の指宿海軍航空基地に配属となり、戦友が特攻で飛び立つのを帽振れで見送った。

私は幼い頃から、戦友が飛ぶ特攻機を整備し見送った父より、アジア解放の聖戦であった大東亜戦争の真実と特攻の真実について聴いて育った。

大切な者の為に命を捧げた特攻は日本男児の誉れであったと、戦友達は皆、胸を張り、「大切な者の為に飛ぶんだぞ!どうだ!羨ましいだろ!」と笑顔で飛び立って行ったと。

視力が悪かった為に憧れの航空隊に配属されなかった父は、心の底から飛べる戦友を羨ましく思った一方で、帽振れの時の哀しみは忘れられぬと常々言っていた。

戦後「戦犯は罰せられる」と流布され、父の乳母は「實さんの命が危ない」と言い庭先で軍服姿の父の写真を全て燃やした。

私の父の当時の写真で残されたのは戦友から貰った集合写真のみ。

元軍人というだけで避けられた事もあったという。

これが国家国民を守る為に戦った一軍人の戦後の事実だ。

未だに自虐史観に洗脳された現状を見るに、独立国としての日本を取り戻さねばならぬと思う。

父はまだ幼く何も分からぬ私を連れ、諸国の航空基地跡の巡礼の旅をした。

その都度「現代の日本人は特攻で飛んだ彼らの真実を知らず、無駄な戦いだった等という。こんな日本人ばかりになったから日本は駄目になった」と嘆いていたのを幼い心に覚えている。

やがて入学した中高一貫校では、韓国人の日本史の教師により徹底した反日教育を受け、父に教えられてきた事と学校の歴史教育との余りの乖離に衝撃を受けた。

その為、多感な一時期、父に激しく反発し、家庭内での海軍の話を拒絶した事もあった。

平和な現代にあり、平和ボケした現代日本人に、英霊の真の思いは理解できないのかもしれない。

しかしだからこそ、歴史を顧みるにあたり、同時代の視点に立ち、顕彰せねばならない。

8年前、父は戦友と交わした「靖國で会おう」という約束をようやく果たす事ができると嬉しそうに言い、延命を禁じ鬼籍に入った。

今、父の魂も戦友との約束をよくやく果たし靖國に戦友と共に眠る。

私の年代で、実の父が帝国軍人であった人は非常に稀であり、帝国軍人からの生の声を聴き、リアルに特攻の真実を感じ育った事は極めて稀少な事であると今更ながら思う。

だからこそ、自身が目の当たりにした一人の軍人の戦中、そして戦後の事実を継承せねばならないと固く誓いを新たにした。

如何ようにして、大日本帝国が現在の日本国へと変わり果てていったのかも含めて。

歴史を史実を知る事は、未来を読み解く事。

それが國體を護持し我々を産み出してくれた先人への何よりの報恩感謝となる事を。


本日終戦の日、護国の英霊に慰霊と感謝の祈りを捧げさせて頂きます。

日本弥栄🇯🇵