18歳で結婚したが、夫が持つ淋病に感染した為、離婚。
しかし、当時、女性には医術開業試験の受験が認められておらず、制度改正に奔走した。
その際、『令義解(りょうのぎげ)』の『医疾令16条逸文 女医条』に、「官戸(賎民)の女子や婢から15歳以上25歳以下の、性識慧了の者(知性に秀でたもの)30人を取り、内薬司の側に別院を造って住まわせ、産科を始め、創腫、傷折、針灸の法を、経文に依拠して、諸博士が口述で教育し、毎月医博士が、年度末に内薬司が試験して、7年期限で修了させる」とする記述を発見し、日本古来、女医が存在したことを証明し、現在、女医が認められない事の不合理さを訴えた。
かくして、吟子は様々な困難を克服し、明治18年(1885年)、医術開業試験に合格、日本で最初の公認女性医師となった。
尚、医術開業試験制度がなかった時代の国家公認ではない女医としては、頭山満を育てた高場乱、天誅組の変で吉村寅太郎の治療を担当した榎本スミ、シーボルトの娘・楠本イネがいる。
40歳の時、16歳年下の同志社の学生で、新島襄から洗礼を受け敬虔なキリスト教徒だった志方之善(しかたゆきよし)と周囲の反対を押し切り再婚。
新婚生活も束の間、夫の之善はキリスト教徒の理想郷をつくるという信念から単身、北海道へ渡り、数年後、吟子は女医の職を辞して後を追い、夫のいるインマヌエル(今金町)へ移住した。
自給伝道を志した之善だったが、志半ばにして病を得て逝去、独りとなった吟子は尚3年間、北海道に残り、診療所を開業して多くの人々を治療した。
その後、東京に戻り開業したが、あまり振るわなかった。
大正2年、62歳で永眠。
女性の地位向上や衛生知識の普及にも大きく貢献した波瀾万丈の生涯だった。
彼女の死後、その偉業は忘れ去られていたが、彼女が一時期暮らしていた北海道で吟子の功績を讃える気運が興り、荻野吟子記念館の設立に繋がった。
現在では吟子の生まれた屋敷は残っておらず、記念館がその面影を残すのみ。
生誕地に佇みつつ、波乱に満ちた吟子の声ならぬ叫びを聴いた。