https://youtu.be/2UNfvpNeDpM?si=2U-kAXwvTf3Ibllc

今回の勉強会は愛知県弥富市の重要文化財「服部家住宅(旧荷之上城)」にて開催。

15代目服部家ご当主からお話を伺った。

伊勢楠氏と共に、同じく南朝方として吉野時代から共闘してきたのが、服部氏だ。
服部氏といえば、楠木正成の妹の嫁ぎ先として、また、観世家とも血縁がある家筋として、余りにも有名である。
服部氏の団結力は非常に強く、伊勢長島攻めの際の服部家棟梁・服部左京亮友貞は、織田勢を迎え討つべく、河内一郡荷ノ上に館を築いた。

友貞は、戦国乱世を生き残る為には、一向衆に帰依する北伊勢の豪族や僧侶・門徒らの、反信長の力の結集が必要と考え、天文17年(1548) 本願寺を訪れ、 長島願證寺と交歓して結びつきを強めた。 

当時、北勢48 家と呼ばれた土豪の多くは長島願證寺の国侍門徒であり、 友貞との結びつきにより長島願證寺は一大勢力となった。 

永禄3年(1560) 、友貞は狭間の戦いで今川義元に加勢し呼応して、軍船で大高下から熱田湊を荒らしたが義元に利あらず、信長を討つ好機を逸した。 

長島一向衆で重きをなした友貞を信長は大いに恐れた。

永禄11年(1568)正月、服部友貞は、楠木正具の求めに応じ、南朝の盟友・多気城城主の北畠具数の元へ年賀の挨拶の為、出立した。

その途上、楠木正具の地盤である北伊勢・米野山蔭涼庵に逗留した。
この時、友貞は、信長の謀略に遭い、信長の家臣・柴田勝家の軍勢に取り囲まれ、蔭涼庵で自刃している。

今回の勉強会では、服部家ご当主様、遠路お越し下さいました皆様、また、地元の弥富市ボランティアガイドの皆様に心より感謝申し上げます。

桜井の駅陣屋の清水家と同じく、共に南朝を支えた服部家との、現代も続く絆を、何より嬉しく思う。