茨城県護国神社内ペリリュー島守備部隊鎮魂碑にも巡拝。

昭和19年9月、史上有名なレイテ沖海戦直前、アメリカ軍が橋頭堡確保のためにパラオ諸島のペリリユー島攻略に4万8千の兵力を差し向ける。
対する、ペリリュー島の日本守備隊は1万名。
 
ペリリュー島を守備していた日本軍は、水戸の第十四師団座下の歩兵第二聯隊を主力とした地区隊(隊長・中川州男大佐)1万2千名。
ペリリュー島守備隊は、共に戦うと言って聞かぬ島民を全て島から出し戦った。
 
「2、3日で陥落させられる」との予測のもと、アメリカ軍は9月15日に海兵隊を主力とする約2万8千名を上陸させるが、日本軍のゲリラ戦法による徹底的な組織的抵抗に遭って大きな損害を受け、上陸後6日目には全連隊が壊滅状態に陥るという前代未聞の事態となった。
 
日本軍には米軍の潜水艦や空爆により輸送船が悉く沈められるという、非常に卑劣な米軍の戦法の為、補給が一切できなくなっていた状況であったのに対し、米軍は圧倒的な物量を確保していた為、日本軍の抵抗は次第に衰えを見せ始めた。
米軍の火炎放射器と手榴弾によって日本軍の洞窟陣地は次々と陥落し、更に、食料や水もなくなり、兵力弾薬もほとんど底を尽いたため、11月24日に司令部は玉砕を決定、守備隊長中川州男大佐を初めとする日本軍首脳たちの古式に則った割腹自刃がなされた。
その間、翌朝にかけて根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵力による「万歳突撃」が行われて玉砕、ペリリュー島は陥落する。
米軍の上陸開始から2ヶ月半も経過してからの事であった。
 
軍旗も機密書類も焼却したことを意味する最後の電文「サクラ・サクラ」が、パラオ本部に届いたのは、24日の16時。
このたった六文字の電文こそ、ペリリュー島守備隊全員が桜花のごとく散ったことを意味するもので、一万人有余名の兵の死をもって謳いあげた世界で最も短かく簡潔な詩と言われている。

 

この鎮魂碑は、五十年祭を期し、ペリリュー島慰霊推進会が平成5年(1993)11月24日に茨城県護国神社に建立したものであり、以下にその碑文を紹介する。

 
 明治七年建軍以来、幾多の国難に出陣して、赫々たる武勲に輝く水戸歩兵第二聯隊は、大東亜戦争酣の昭和十九年三月、北満の守りから、中部太平洋の要衝ペリリュー島に転用され、聯隊長中川州男大佐は、一万有余名の陸海軍部隊を併せ指揮して同島に布陣し、敵の侵攻に備えて堅固な陣地を構築すると共に、全島民をパラオ本島に避難させた。
九月十五日、四万有余名の米軍機動部隊来襲し、想像を絶する砲爆撃の掩護下海面を圧する敵上陸用舟艇群を邀撃して大打撃を与えた。爾後上陸せる敵増援部隊と七十余日に及び、洞窟陣地に拠る死闘を繰り返しつ、持久の任務を遂行したが、十一月ニ十四日、遂に戦力尽き、中川部隊長は、軍旗を奉焼し決別電報「サクラ・サクラ」を打電して、自決、残る将兵は遊撃戦に転じ悉く悠久の大義に殉じた。
 守備部隊の武功は畏くも天聴に達し御嘉賞十一回に及び、陸海軍最高司令官の感状により全軍に布告され、世界戦史に比類なき精強部隊の名を残した。
 ここに、その偉勲を景仰し、英霊の御加護による祖国の平和と反映を祈念して、五十年祭を期し、有志相図り、この碑を建立する。