茨城県護国神社へ参拝。

護国の英霊へ慰霊の誠をお捧げさせて頂いた。


明治11年2月、嘉永6年以降の明治維新前後に殉じた水戸藩士約1800柱を祀る為、常磐神社の境内の現在の東湖神社の鎮座地に建立された鎮霊社が茨城県護国神社の起源である。

現在の鎮座地・偕楽園の向かい側・桜山に遷座したのは昭和16年のことで、それ以前は常磐神社の現在の東湖神社鎮座地に摂社「鎮霊社」として鎮座していた。


桜山とは、護国神社のルーツである現在の山口県下関市に鎮座する桜山神社の名称と同じである。

桜山神社は高杉晋作が起草し、慶応元年に創建された桜山招魂場の事であり、この創建が元となり、護国神社、靖国神社の創建に至った事は、以前ご紹介した通りである。『靖国神社・全国護国神社のルーツ・櫻山神社』ここ櫻山神社は戦後の自虐史観教育のためか、観光地として余り知られていないが、実は、幕末から倒幕、そして近代化を語る上では決して欠かすことのできぬ非常に重要な…リンクameblo.jp


幕末維新の諸藩では長州下関の桜山招魂場のみならず、朝廷による霊山招魂社をはじめ、幕末維新の志士たちの慰霊の場は明治初年頃までには次々と創建されていったが、水戸では天狗・諸生の争い激しく、その声はあっても、実現に至らなかった。

 そんな中で「鎮霊社」創建のために静かに奔走したのが、司命丸高倉家4代目当主の高倉長八郎である。

長八郎は尊王攘夷の志篤く、桜田門外の義挙の志士や天狗党らに巨額の金穀を支援し、多くの志士たちは、目に着く城下をはなれ河和田村の高倉家を謀議の場所とした。

高倉家には食客も多く、鯉沼伊織後の侯爵・香川敬三もその一人であった。

京に出て、香川と行動を共にした経験もあった長八郎は、当時新政府の宮内大丞だった香川に依頼し、明治9年秋、元老院議長・有栖川宮熾仁親王の真筆による「鎮霊社」の額を得た。(創建された社にはその模写が奉納されている)。

これを契機に長八郎は自らも数度にわたり多額の寄付をしただけでなく、「勧進元」として寄付集めに奔走した。

そして盛り上がる機運の中、明治11年2月に、常磐神社境内地の現在の東湖神社の地に「鎮霊社」が創祀された。

長八郎は、志半ばで斃れた多くの志士を間近で見てきたからこそ「鎮霊社」造営に駆り立てられたのだった。


 ちなみに有栖川宮熾仁親王は公武合体の旗印の下、和宮親子内親王との婚約を反故にされた後、迎えた最初の正室が斉昭公の11女・貞子姫。

そして熾仁親王の大叔母は、斉昭公の正室吉子女王。

熾仁親王の姪である実枝子女王は慶喜公の継嗣・徳川慶久公爵の妻。

つまり有栖川宮家は水戸家との縁が幾重にも繋がっている。

 高倉長八郎は明治11年2月の「鎮霊社」創祀を見届けたあと同年6月に逝去した。

香川敬三らから上京して官途に就くよう説得されたが、栄達を望まずこれを固辞し地域社会発展のためにひたすら尽くした。

家督を相続した高倉信太郎は父・長八郎の遺訓「社会公共の為、功利名聞を考えず奉仕せよ」を家憲を定め、その教えは子々孫々に受け継がれた。


昭和14年4月、鎮霊社護国神社に改称。

昭和15年に独立神社となり、昭和16年10月、内務省指定護国神社となり「茨城県護国神社」と改称、同年11月に現在地の偕楽園桜山に遷座した。


終戦後、占領軍のGHQによって、全国護国神社は軍国主義施設と見なされ、「護国」の名称の廃止を存続の条件とされた。

茨城県護国神社もその煽りを受け、昭和20年8月に地名により「桜山神社」となった。

昭和26年のサンフランシスコ講和条約によりアメリカの占領国だった日本は独立、これをもって、昭和29年10月にもとの社名「護国神社」に戻す事ができた。

戦後は県に関係した軍人、軍属の霊を合祀し、現在ではほとんどの戦没者の合祀が完了、祭神は63,494柱である。


日本が独立してから73年も経過するというのに、未だ、占領時のアメリカ統治下でアメリカによってつくられた占領時の憲法が敷かれている事は異様だ。

独立国家としての憲法とする、又は、終戦前の大日本帝国憲法に戻すべきだ。

それが為されぬうちは、日本は未だ占領国に甘んじていると言わざるを得ない。

一日も早く日本の真の独立を望む。

日本再生

弥栄