関東三大梅林の一つに数えられている越生梅林は、1350年頃に九州の太宰府から小杉天満宮、すなわち現在の梅園神社を分祀した際、こよなく梅を愛し、「東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」と都の自邸の梅を懐かしんで詠んだ菅原道真公に因み梅を植えたことが起源。


江戸時代には、既に梅が越生の特産品になっており、生梅を出していた記録もある。
明治になると観光地としても注目されるようになり、明治33年には地元有志らが「古梅林保会」を結成。



翌年には、越辺川岸の一画を、奈良の南朝ゆかりの梅林・月ヶ瀬梅林にあやかり「新月ヶ瀬豊楽園梅林」と命名。


同年には歌人で国文学者の佐佐木信綱が来遊し、「入間川 高麗川こえて都より 来しかひありき 梅園のさと」の歌をのこした。


元号の令和は、万葉集を典拠とし、歌人大伴旅人が大宰府長官時代に詠んだ梅の花の歌の序文「初春の令用にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は後の香を薫らす」から引用されており、太宰府をルーツとする越生梅林は令和改元にも深く関わり、また、南朝ともゆかり深き、非常に縁起佳き、趣きある景勝地である。