秩父地方の総鎮守で、三峯神社・宝登山神社と共に秩父三社の一社にして武蔵国四之宮である旧国幣小社・秩父神社へ参拝。

 

 

この地は、古代から、秩父神社社殿から参道を経て南側延長線上に位置する武甲山を御神体として遥拝する為の聖地であったのを、崇神天皇の御代、古来武蔵国北西部(知々夫国)を治めた初代・知知夫国造(ちちぶのくにのみやつこ)の知知夫彦命が、自身の十代前にあたる祖神・八意思兼(やごころおもいかね)命を祀る祭祀場としたのが創祀。

八意思兼命とは、天照大神が天の岩戸に籠られた際、知恵を絞り、岩戸開きの妙案を考えついた神であり、八意思兼命が政治や学問の神とされるのはこれが由縁である。
中世には、妙見菩薩と習合、「秩父大宮妙見宮」として、北斗信仰の行場となった。

 

江戸時代に徳川家康の命により現在の社殿が建てられ、社殿には左甚五郎作の「子宝・子育ての虎」や「つなぎの龍」など、見事な彫刻が施されている。

昭和28年には、昭和天皇の弟でいらっしゃる秩父宮雍仁親王も合祀された。
 
参拝後、駐車場に戻る途中に何故か道に迷い通った所が、「武蔵國風土記」にも記述のある鎮守の森「柞乃杜(ははそのもり)」。
本殿裏手にあたり、境内地では最も神聖で神威高き禁足地にあたる。

 

附近には「乾の井戸」という聖水が湧き出る井戸もあり、唯ならぬ神氣がみなぎっていた。

この杜は普通ではなかなか気付かれぬ場所なので、ここに導かれたのは、有難き神慮、神議いである。

 

御神体山の武甲山は日本武尊が自らの兜をこの山の岩室に奉納した事がその名の由来。

山からは非常に強烈な氣が発せられており、遠目からもその存在が際立っていた。
古代人も、その雄姿に畏怖の念を抱いたことであろう。
秩父神社参拝後に武甲山山麓を通り、その姿を眺めたが、石灰岩採掘場として目を付けられ山肌が削られている痛々しい姿に心が痛んだ。
思えば、日本武尊と関わりある伊吹山も山肌が削られていて、何とも複雑な心地だ。
自然こそが神である。
人間が奢る事無く、自然のもとで生かして頂いている、その恵みに感謝の念を絶やさぬ事が肝要であると感じた。
 
尚、12月に斎行される例祭「秩父夜祭」(秩父祭の屋台行事と神楽)は「山・鉾・屋台行事」の1つとしてユネスコ無形文化遺産に登録されており、いつか訪れてみたい祭事である。