茨城県水戸市に鎮座する常磐神社。
常磐神社は、大楠公を祖とする私にとって、そして、楠公精神と水戸学を語る上で、絶対に欠かせぬ非常に重要な神社である。
明治初年、義公(水戸藩第2代藩主徳川光圀公)・烈公(第9代藩主徳川斉昭公)の徳をしたう多くの人達によって偕楽園内に祠堂が創建され、明治6年、明治天皇の勅旨をもって『常磐神社(ときわじんじゃ)』の御社号を賜った。
明治7年、現在地に社殿を造営し、5月12日遷座。
義公には「高譲味道根命(たかゆずるうましみちねのみこと)」、烈公には「押健男国之御楯命(おしたけおくにのみたてのみこと)」
の御神号が宣下され、明治15年には別格官幣社に列格している。
なぜ、私にとって重要なのか。
それは、常磐神社に祀られる義公(徳川光圀公)こそが、大楠公殉節地たる湊川の地に、大楠公墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」を建立されたからだ。
水戸学の始まりは光圀公による『大日本史』編纂に始まるとされるが、その中でも、光圀公が大きな力を注いだのが大楠公墓碑建立である。
『大日本史』編纂の大義とは、幕府で将軍が権勢を誇る時代にあって、天皇中心たる本来の國體に沿った歴史書を編纂し、後世に継承する事により、國體の真実を中興せしむる事にあった。
『大日本史』編纂事業に伴い、光圀公は家臣の佐々介三郎宗淳を各地に派遣し、それぞれの地の歴史を探らせたが、その過程で、湊川の戦いで國體中興の為に殉じた大楠公の墓所の存在を知る事となる。
当時、大楠公の殉節地は坂本村と呼ばれ、墓碑として五輪塔が建てられていた。
青山幸利公が五輪塔の左右に梅と松を植え、顕彰したといはいうものの、佐々宗淳の調査時には、五輪塔の周囲は草叢に囲まれ、整備も行き届かぬ状況であり、その現状を知った光圀公は、早速、自費を投じて、現在、湊川神社内に建つ、贔屓(神亀)の上に載った立派な墓碑を建立し、裏面には主家の再興の機会をはかるため、日本に亡命していた明の学者朱舜水に賛文を書かせた。
つまり、水戸学とは大楠公墓碑建立無くして誕生し得なかったし、尊攘という語も生まれることはなかった。
水戸学のルーツは大楠公なのだ。
しかし、現在、保守を標榜する方にあっても、水戸学は知っていても大楠公についてはよく知らないという方が非常に多く、誠に残念でならない。
逆に、大楠公は好きだが、水戸学は難し過ぎてよく分からないという方も多く散見される。
大楠公を大いに尊敬し、自ら大楠公墓碑に四度も参拝した吉田松陰先生は、楠公精神の真髄とは何であるかを学ぶべく、水戸へ遊学した。
そこで吉田松陰先生が学びとった事から、多くの弟子が松下村塾で育成され、世に送り出され、やがて松陰先生の門下生らが中心となって王政復古が成し遂げられ、後醍醐天皇、大楠公の悲願であった建武中興はここに帰結した。
つまり、近代日本の樹立とは、大楠公という稀代の聖人と、その類稀なる精神性から生まれた水戸学が無くては実現し得なかったのだ。
真の國體の真髄を知る為には、大楠公の偉業の本義と、水戸学を熟知しておく事が必須である。
私はその為に、全力を尽くす覚悟だ。
よって、来年3月4日、常磐神社に於いて、真の楠公精神、及び水戸学の真髄を学び國體の淵源を学ぶ勉強会(楠公研究会)を開催する。
今回、大変温かくお迎えくださった常磐神社の寺内宮司様、茨城県県庁の御関係の皆様、常磐神社参拝の為にご尽力頂きました楠公研究会関東支部長の塩原様、同研究会賛助会員の守谷様に、心より厚く御礼申し上げます。
来年3月、水戸の皆様との再会を、また、関西の皆様と楠公精神の聖地・水戸にてお会いできる事を、心より楽しみにしております。