戊辰戦争で、新政府軍と戦い、勇ましく散った娘子隊(じょうしたい)隊長の中野竹子という女性をご存知だろうか。

 

大河ドラマ「八重の桜」で、山本八重(後の新島八重)が取り上げられてからは、八重さんの方ばかりが有名になり忘れられがちだが、「八重の桜」放送以前は、どちらかといえば中野竹子の方がよく知られていたのではないだろうか。

 

今、私は詩吟教室に通っているが、つい先日、発表会があり私が吟じたのが『会津の少女連吟』という、中野竹子について吟じた詩吟だった。

その教本に、中野竹子の銅像の写真が掲載されており、以来、その銅像がどこにあるのか、ずっと気になっていたが、今回の会津藩での楠公精神についての現地調査の際、この銅像の建つ地を訪れる事ができた。

 

中野竹子は、江戸詰勘定役会津藩士・中野平内の長女として江戸の会津藩藩邸で生まれ、江戸で育った。
僅か5歳で百人一首を全て暗唱し、幼少期からその聡明さはずば抜けていたという。
また、薙刀や書道の腕前も一流で、薙刀では道場の師範代を、書道では祐筆(ゆうひつ・武家の秘書役、事務官僚)を務める程であった。
更に「小竹」という雅号で和歌にも親しみ、文武両道に非常に優れた才能を発揮した少女だった。
 
そんな中野竹子は、17歳の時、薙刀の師である赤岡大助に望まれ、彼の養子となり、19歳で彼の甥との縁談が成立しかけたが、竹子は会津藩の危機が迫る中での婚姻を断り、自ら養子縁組を破談して、実家へと戻ってしまった。
 
慶応4(1868)年1月の「鳥羽・伏見の戦い」の後、江戸城登城禁止を言い渡された会津藩主・松平容保(かたもり)が会津藩に引き揚げる際、竹子とその家族も、江戸から会津へ共に帰藩した。
 
竹子は会津藩きっての美少女として藩内で名を馳せたが、その妹・優子も非常に美人だったので、会津藩の美人姉妹としての評判となった。
類稀な美少女でありながら、その気性は激しく、自邸で湯あみを覗き見した男に対して、薙刀を振り回して追っ払った程、男以上に勝気な性格だった。
 
慶応4(1868)年8月23日、十六橋、戸ノ口等、会津藩の要衝を破り、若松城下に新政府軍が攻め寄せた。
 
この混乱によって、城下は自刃する者や藩外に逃げ出す者、そして新政府軍と戦うべく城へ向かう者が入り乱れた。
当然ながら、勝気な竹子は、薙刀を手に、母・こう子、妹・優子を連れ、若松城へ向かったが、想定外に素早い新政府軍の侵攻に遭い、城は既に閉門しており、竹子達は城に入る事ができなかった。
 
そこで、竹子たちは同じ道場の薙刀の稽古仲間の女性達に呼び掛け、娘子隊(あるいは婦女隊)と呼ばれる女性だけで編成する義勇軍を結成し、その人数は総勢20名以上にものぼった。
 
中野竹子ら娘子隊は「容保の義姉・照姫が坂下(ばんげ)駅に避難した」という報せを聴き、照姫の警護に当たる為、坂下へと向かった。
しかし、これは誤報で、坂下に照姫はいなかった。
 
翌日、照姫が会津若松城に居ることを知った竹子らは、再度、若松城へ向かう。 
その途中、娘士隊は宿駅に駐留していた会津藩の家老・萱野権兵衛に従軍を願い出たが「婦女子まで駆り出したかと笑われては会津藩士の名折れ」と拒否。
これに対して、竹子は「戦に加えてくれなければ、この場で自刃する」とすごんだ。
彼女等の気魄に押され、家老は娘士隊の従軍の許した。
晴れて、家老からの従軍の許可を得た娘子隊隊士らは、来るべき戦闘にむけて髪を短く切り、女子用の袴を履き、男装に準じた姿となった。
 
娘士隊に入隊しなかった八重に対して、竹子は
「あなたはなぜ、娘子隊に入らないの⁉︎」と激しく非難したという。
武家の子女は薙刀で戦うものという竹子らの考えに対して、八重は既に時代は鉄砲での戦いに移り、薙刀で戦う娘士隊への合流を辞退し、男子しか入隊できない鉄砲隊へ男装して入隊した。
 
8月25日夕方、娘子隊は、現在の福島県松岡市神指町大字黒川にかかる柳橋(涙橋)に於いて、新政府軍と遭遇し、戦闘となった。
新政府軍は、相手側が女性である事に気付くと、彼女らを生け捕りにしようと近寄ってきた。
しかし生け捕りを恥とする娘子隊の少女らの奮戦が激しく、新政府軍は思わず銃を構えてしまう。
 
武勇に秀でた中野竹子は何人かの兵を薙刀で斬り殺し善戦したが、敵の放った銃弾が彼女の額に命中してしまう。
頭を撃たれた(胸を撃たれたとも)竹子は、まだ息があり、自身の首を取られないようにと、母のこう子(当時まだ16歳だった妹・優子であったとも)に介錯を頼む。
武家の慣いとはいえ、実の娘(又は姉)の首を落とす心情は如何ばかりであったろう。
まさに、彼女達が夜叉に変じた瞬間だった。
落とされた首級は、法界寺の梅の木の根元に埋葬された。
 
竹子が死の間際まで握っていた薙刀の柄には、次の辞世が書かれた短冊が括り付けられていた。
  〜もののふの 猛き心にくらぶれば 
       数にも入らぬ 我が身ながらも〜

 

この辞世は、楠木正成の嫡男・楠木正行が、四條畷の戦いに向かう直前に、吉野皇居の後村上天皇に拝謁すべく吉野に立ち寄った際、後醍醐天皇御陵のある如意輪寺本堂に髻を切って収め、その扉に刻んだ辞世

〜かへらじと かねて思へば 梓弓
    なき数に入る 名をぞとどむる〜
の「なき数に入る」をなぞらえ「数にも入らぬ」と詠んだものと思われる。
実際、正行らが髻を切ったと同じように、竹子らも従軍が正式に決定された際、髪を切っており、この行為もまた、四條畷に向かう正行に倣ったものと思われる。

 

 

白虎隊自刃の地に鎮座する飯盛山宇賀神堂内の絵馬から判るように、会津藩では、楠公父子の桜井の訣別にみる「忠孝両全」の精神を藩士らに手本として教えていた事が今回の現地調査で判明したので、竹子もまた、楠公父子について詳しく知っていたのは当然の事である。

 

 

そうであるならば、竹子が正行の事蹟に倣い、忠義を尽くした事は紛れも無き事実であり、彼女らの精忠の精神はまさに「赤誠」というべきであろう。

 

現在、激しく戦い散った彼女の戦死地、柳橋のたもとには「中野竹子殉節の碑」と、薙刀を構えた竹子の銅像が建立され、乙女達の誇り高き生き様を今に伝え続けている。