楠公顕彰史として、恐らくほぼ知られていないが、正儀公の後の楠木氏の足跡がしっかりと残されている。
私の楠公顕彰活動は、史料第一主義により戦後封印され消し去られつつある郷土史を掘り起こし、郷土愛を復興する事により、引いては、再び愛国心を育む事に主目的がある。
今回の発見は、その大きな成果の一つといえる。
この地は、伊勢楠氏嫡孫・楠木正具公が居城とした伊勢治田城の程近くであり、戦国期は伊勢楠氏の勢力下に置かれていた。
伊勢楠氏とは、楠木正成の三男で、楠木家棟梁として家督を継いだ楠木正儀からの嫡孫にあたる血筋であり、私も伊勢楠氏流である。
楠木正儀の嫡男・楠木正勝の時代に、千早城が落城し、正勝らは奈良・十津川郷に逃れて難を避けたが、間も無く、北畠親房の末裔で伊勢国司の北畠氏の招きを得て、正儀流楠木氏も伊勢へ移る。
正儀流楠氏が拠点とした城が、三重県四日市の楠城と三重県いなべ市の伊勢治田城である。
特に、織田信長の伊勢長島攻めの際の、織田勢と伊勢治田城の楠木勢との激戦は有名で、さすがの織田信長も、伊勢楠氏には相当手こずった。
伊勢楠氏と共に、同じく南朝方として吉野時代から共闘してきたのが、服部氏だ。
服部氏といえば、楠木正成の妹の嫁ぎ先として、また、観世家とも血縁がある家筋として、余りにも有名である。
服部氏の団結力は非常に強く、伊勢長島攻めの際の服部家棟梁・服部左京亮友貞は、織田勢を迎え討つべく、河内一郡荷ノ上に館を築いた。
友貞は、戦国乱世を生き残る為には、一向衆に帰依する北伊勢の豪族や僧侶・門徒らの、反信長の力の結集が必要と考え、天文17年(1548) 本願寺を訪れ、 長島願證寺と交歓して結びつきを強めた。
当時、北勢48 家と呼ばれた土豪の多くは長島願證寺の国侍門徒であり、 友貞との結びつきにより長島願證寺は一大勢力となった。
永禄3年(1560) 、友貞は狭間の戦いで今川義元に加勢し呼応して、軍船で大高下から熱田湊を荒らしたが義元に利あらず、信長を討つ好機を逸した。
長島一向衆で重きをなした友貞を信長は大いに恐れた。
永禄11年(1568)正月、服部友貞は、楠木正具の求めに応じ、南朝の盟友・多気城城主の北畠具数の元へ年賀の挨拶の為、出立した。
この時、友貞は、信長の謀略に遭い、信長の家臣・柴田勝家の軍勢に取り囲まれ、蔭涼庵で自刃した。
弥富に住む服部家のご子孫がこの地を度々訪れ、 この墓を弥富の服部家に移したいと言われたが、今は畑中家の守り神となっているので、ここでお守りすると言って断ったとの事。
しかし、服部家もこれだけ綺麗に手厚く供養してもらっていると大いに喜ばれた。