伊賀上嶋家所蔵 文書「観世系図」「観世福田系図」についての考察と解釈について、西川流日本舞踊・西川長秀師範と会合。

楠木家と観世家との血縁の可能性については、興味の尽きない分野だ。
嘗て、能楽研究者の表章氏によって「『伊賀観世系譜』は後代作成の偽文書」と断罪され、梅原猛氏が表氏の論説に猛烈に反発、以来、この論争はタブー視されてきた。
一説に、観阿弥は元弘 3 年(1333)伊賀国(大和盆地南部を本拠とする山田猿楽の出身との説も有り)に生まれたとされ、幼名は観世丸、本名は清次とされる。
彼の妻の出生地である名張市小波田で初めて猿楽座(後の観世座)を建て猿楽師としての名を世に広めた。
上嶋家文書によれば、観阿弥は伊賀国阿蘇田の豪族・服部元成という人の三男として生まれ、母は河内国玉櫛庄楠正成の妹であるとしている。
観阿弥の父・元成は上嶋家に生まれながらも、後に服部家を継いだ経緯から、観阿弥の本名は服部三郎清次とする。

こういった学者が仕掛ける論争の論拠は全て机上のものであり、先人が伝えてきた伝承を軽んずる傾向にある。
古来、日本人は皇祖神から託された三種の神器を民族の教訓としてきた。
そして、その神器の中の鏡は正直である事を説いている。
日本人は元来、正直な民族であるからこそ、口伝継承こそが重視され重んじられてきた。
だからこそ、我が国の伝統文化、伝統工芸などは全て口伝継承の形式を遵守している。
『古事記』が元来、稗田家によって口伝継承されてきたものである所以もまた、日本独特の習俗の一つである口伝継承に因るものである。
世界の中でも、日本人ほど正直な民族性の民族は存在し得なかったという何よりのこれが証である。