沖縄の城の中で最も古く、築城の歴史が12世紀頃まで遡る、沖縄の世界遺産最古の城・勝連城へ。

 

ここ勝連城は、この地を治めた武将・阿麻和利(あまわり)が居城した城だ。
 
沖縄の歴史は非常に複雑であるが、これを無視して日本の歴史は語る事はできない。
沖縄本島は、14世紀頃、本島北部の北山、中部の中山、南部の南山の3つの小国に分かれ、按司(豪族)らが群雄割拠していたが、1429年、これらの小国のうち佐敷の按司の出自で、中山王であった初代・尚巴志(しょうはし)が各地へ侵攻し、統一を成し遂げ「琉球王国(第一尚氏)」が誕生し、7代尚徳王の時に金丸(後の尚円王)の即位により王朝は滅亡した。
尚、第一尚氏と第二尚氏とは血脈の繋がりは無く、第一尚氏滅亡後に第二尚氏を樹立した金丸は、第一尚氏王統の重臣である。
第二尚氏の建てた琉球王朝は日本本土や中国などアジア諸国との貿易 の中継地として経済的な発展を遂げ、独自の政治、文化、信仰思想が生まれ、1879年の廃藩置県まで450年続いた。
 
グスクは、13世紀から16世紀頃にかけて造られた軍事的要素の高い施設だが、そこには多くの琉球独自の文化を見ることができる。
琉球王国成立以前は、 軍事的要素や地域を取りまとめる政治的要素が強く、時代を経るにつれ祭祀的要素が強くなっていった。
これらの歴史的・文化的側面が世界遺産に登録される一つの要素となっている。
 
沖縄「グスク(城)時代」のはじまりは11世紀末から12世紀頃とされ、13世紀頃から城塞的なグスクが各地に造られるようになった。
14世紀には、中国大陸で明帝国が誕生し、明は、周辺国から買ぎ物を献上させ、恩恵を与える朝貢制度を促し、各国の首長を君主とグスクにはその土地を治める按司が居城して承認する冊封(さくほう)体制を進めた。
琉球では三山とも朝貢し、各領地の王を名乗った。
その後、より権力を持った按司が登場し、14世紀頃には今帰仁グスクが治める北山、浦添グスクそして首里グスク、そして1406年に南山の佐敷グスクの尚巴志が浦添グスクの中山王武寧 を破り中山王となった。
その後、1416年北山の 攀安知、1429年には南山の他魯毎を倒し、中山、南山グスクが治める南山の三国に勢力が分かれるという、中国の三国時代さながらの三山鼎立の時代になっていく。
同年に尚巴志を王とした琉球王国が誕生したが、この王府へ刃を向けたのが、ここ勝連城主の阿麻和利(あまわり)であった。
後世、王府により編纂された 「中山世謝」 (1701年) 等の歴史書には、戦乱の経緯とともに阿麻和利については、逆臣として位置づけられて いる。
 
王国建国初期、勝連グスクでは、アマミキヨから連なる伊波按司の末裔である阿麻和利 (不明~1458年)が貿易により強大な力を蓄えていた。
そんな阿麻和利の力を恐れた尚泰久王(在位1454~1460年 しょうたいきゅうおう) は、 座喜味グスクにいた護佐丸を勝連グスクの対岸となる中城グスクに居城させ監視を強めた。
護佐丸も、阿麻和利の有事に備え、いつでもこれを迎え撃てるように軍備を整えた。
一方、王府に警戒され護佐丸に監視されている事を察知した阿麻和利 は、先手をとって首里王城へ突如参内し、護佐丸に謀反の動きあり、と讒言を行ったところ、尚泰久王は阿麻和利の讒言をあっさりと信じてしまい、護佐丸の籠る中城を調査させた所、城内で軍備を整えていた事を確認し、謀反と決定付け、王府軍を中城へ派遣した。
護佐丸は自身の主君の軍が中城を取り囲んでいる事を知り、これに弁明も対抗もする事無く、無言のままに忠孝の節を貫き、家族もろとも自刃した。
この時、護佐丸の子弟も皆、自刃したが、唯一三男・盛親のみ、その乳母に抱き抱えられて城を脱出し、護佐丸の血脈は生きながらえた。
後に、盛親は、親の仇である阿麻和利を討伐し、悲願を達成している。
 
護佐丸の見事な死に様は、『葉隠』が著される数百年も前の事である。
近世日本に発生した武士道精神の基とは楠公精神から派生したものだが、本土に於いて武士道精神が確立されるよりも前に、琉球に於いてと護佐丸のように、まさに武士道の鑑の如き武将がいた事は誠に感慨深いものがある。
 
真の勝利とは、戦での勝利ではない。
後の世に亘って志が連綿と受け継がれ後世の人々を鼓舞し動かし続ける事こそが、真の勝利である。