松陰は処刑の前々日から前日(夕暮時)にかけて留魂録を書き上げた。

松陰は幕府に押収されたときのことを考え、同じもの2部を牢名主である沼崎吉五郎に託し、一部は松下村塾門下生の手に渡るよう沼崎に手配をしてもらい、もう一部は沼崎自ら保管してくれるよう依頼、来るべき時に、松下村塾の塾生に手渡してほしいと依頼する。

1部の留魂録は無事に萩に届けられ、門下生と親しい人たちの間で書写され回覧された。

門弟達は、この写本により、松陰の遺志を知り、これに応えるべく、更に国家に殉じる志を貫く覚悟を強くしたのだった。

しかし、蛤御門の変や長州征伐、奇兵隊旗揚げといった幕末の動乱の中、いつしか、松陰直筆の原本の行方は分からなくなくなってしまう。

門弟らが書写した写本は幾つか現存するが、松陰自筆の留魂録の原本はもう2度と見ることはできないと思われていた。

しかし、松陰の死後15年が経過した1876年 松陰自筆の留魂録が再びその姿を現した。

実は、松陰に頼まれて残る1部を託された沼崎は、間もなく三宅島に配流となるが、配流先では役人に見つからぬようにと、腹巻の中に留魂録を潜ませつつ過ごし、やがて三宅島にて明治維新を迎える。

明治7年にようやく本土に帰還した沼崎は、松陰との約束を果たすべく、元松下村塾門弟を探しあぐね、遂に明治9年、元門弟で、当時、神奈川県令を務めていた野村靖(和作)との面会を果たし、実に17ぶりの長き歳月をかけて、松陰の遺託を果たしたのだ。

その原本は、明治24年に松下村塾に納められ、現在も尚、萩の松陰神社に宝物として収められ、大切に継承されている。

まさに、松陰神社のご神体ともいうべきものと言えよう。

以下、「留魂録」全文の書き下し文と現代語訳である。


【書き下し文】

身はたとひ

武蔵の野辺に朽ちぬとも

留め置かまし大和魂


十月念五日     二十一回猛士


一、余、去年已来いらい心蹟百変、あげて数へがたし。なかんづく、趙の貫高を希ひ、楚その屈平を仰ぐ、諸知友の知るところなり。ゆゑに子遠が送別の句に「燕趙の多士一の貫高。荊楚深く憂ふるは只屈平」といふもこのことなり。しかるに五月十一日関東の行を聞きしよりは、また一いつの誠字に工夫をつけたり。ときに子遠、死字を贈る。余これを用ひず、一白綿布を求めて、孟子の「至誠にして動かざる者は、いまだこれ有らざるなり」の一句を書し、手巾へ縫ひつけ、携へて江戸に来たり、これを評定所に留め置きしも、わが志を表するなり。

  去年来のこと、恐れ多くも天朝・幕府の間、誠意あひ孚せざるところあり。天、いやしくもわが区々の悃誠を諒したまはば、幕吏かならずわが説を是とせんと志を立てたれども、「蚊はう山を負ふ」の喩へ、つひに事をなすことあたはず今日に至る、またわが徳の菲薄なるによれば、いま将た誰れをか尤とがめ、かつ怨まんや。

一、七月九日、はじめて評定所呼び出しあり。三奉行出座、尋鞠の件、両条あり。一に曰く、梅田源次郎長門下向の節、面会したる由、何の密議をなせしや。二に曰く、御所内に落文あり、その手跡汝に似たりと源次郎そのほか申し立つる者あり、覚ありや。

 この二条のみ。それ梅田は、もとより奸骨あれば、余ともに志を語ることを欲せざるところなり、何の密議をなさんや。わが性、公明正大なることを好む、豈あに落文なんどの隠昧のことをなさんや。

 余、ここにおいて六年間幽囚中の苦心するところを陳じ、つひに、大原公の西下を請ひ、鯖江侯を要する等のことを自首す。鯖江侯のことに因りて、つひに下獄とはなれり。

一、わが性、激烈怒罵に短かし。つとめて時勢に従ひ、人情に適するを主とす。これをもつて吏に対して幕府違勅の已むをえざるを陳じ、しかるのち当今の処置に及ぶ。その説つねに講究するところにして、つぶさに対策に載するがごとし。これをもつて幕吏といへども甚だ怒罵することあたはず、ただちに曰く、「汝陳白するところことごとく的当とも思はれず。かつ卑賤の身にして国家の大事を議すること不届きなり」。余また、ふかく抗せず、「ここをもて罪を獲るは万々辞せざるところなり」といひてやみぬ。

 幕府の三尺、布衣、国を憂ふることをゆるさず。その是非、われ曽て弁争せざるなり。聞く、薩の日下部以三次は対吏の日、当今政治の欠失を歴詆して「かくのごとくにては往先三五年の無事も保しがたし」といひて鞠吏を激怒せしめ、すなわち曰く「これをもつて死罪をうるといへども悔いざるなり」と。

 これ、われの及ばざるところなり。子遠の死をもつてわれに責むるも、またこの意なるべし。唐の段秀実じつ、郭曦においては彼がごとくの誠悃、朱においては彼がごとくの激烈、しからばすなはち英雄おのづから時措のよろしきあり。要は内に省りみて疚ましからざるにあり。そもそもまた人を知り幾を見ることを尊ぶ。われの得失、まさに蓋棺の後を待ちて議すべきのみ。

一、この回の口書、はなはだ草々なり。七月九日ひととほり申し立てたる後、九月五日、十月五日両度の呼び出しもさしたる鞠問もなくして、十月十六日に至り、口書読み聞かせありて、ただちに書判せよとのことなり。余が苦心せし墨使応接・航海雄略等の論、一も書載せず。ただ数個所開港のことをほどよく申し述べて、国力充実の後、お打ち払ひしかるべくなど、わが心にもあらざる迂腐の論を書きつけて口書となす。われ、言ひて益なきを知る。ゆゑにあへていはず。不満のはなはだしきなり。甲寅の歳、航海一条の口書に比するときは雲泥うんでいの違ちがひといふべし。

一、七月九日、ひととほり大原公のこと、鯖江要駕のことなど申し立てたり。はじめ意へらく、これらのこと、幕にもすでに諜知すべければ、明白に申し立てたる方、かへつてよろしきなりと。すでにして逐一ちくいち口を開きしに、幕にて一円知らざるに似たり。よつて意へらく、幕にて知らぬところを強ひて申し立て、多人数に株蓮蔓延せば、善類を傷ふこと、すくなからず、毛を吹いて瘡を求むるにひとしと。

 ここにおいて鯖江要撃のことも要諌とはいひかへたり。また京師往来諸友の姓名、連判諸氏の姓名など、なるべきだけは隠して具白せず。これ、われ後起人のためにする区々の婆心なり。しかして幕裁、はたしてわれ一人を罰して、一人も他に連及なきは実に大慶といふべし。同志の諸友、ふかく考思せよ。

一、要諌一条につき、事遂げざるときは鯖候と刺さしちがへて死し、警衛の者要蔽するときは切り払ふべきとのこと、実に吾がいはざるところなり。しかるに三奉行強ひて書載して誣服せしめんと欲す。誣服は吾れあへて受けんや。ここをもつて十六日、書判の席にのぞみて石谷・池田の両奉行と大いに争弁す。吾れあへて一死を惜しまんや。両奉行の権詐に伏せざるなり。

 これよりさき九月五日、十月五日、両度の吟味に、吟味役までつぶさに申し立てたるに、死を決して要諌す、かならずしも刺しちがへ、切り払ひなどの策あるにあらず。吟味役つぶさにこれを諾して、しかもかつ口書に書載するは権詐にあらずや。

 しかれどもことすでに爰に至れば、刺しちがへ・切り払ひの両事を受けざるは、かへつて激烈を欠き、同志の諸友また惜しむなるべし。吾れといへども、また惜しまざるにあらず。しかれども反復これを思へば、成仁の一死、区々一言の得失にあらず。今日、義卿、奸権のために死す、天地神明照鑑上にあり、なに惜しむことかあらん。

一、吾れ、この回はじめ、もとより生を謀ず、また死を必せず。ただ誠の通塞をもつて天命の自然に委したるなり。七月九日に至りてはほぼ一死を期す。ゆゑにその詩にいふ、「継盛ただまさに市戮に甘んずべし、倉公いづくんぞまた生還を望まんや」と。

 その後、九月五日、十月五日、吟味の寛容なるにあざむかれ、また必生を期す、またすこぶる慶幸の心あり。この心、吾れこの身を惜しむために発するにあらず。そもそも故あり。

 去臘大晦、朝議すでに幕府に貸す。今春三月五日、吾が公の駕、すでに萩府を発す。吾が策ここにおいて尽き果てたれば、死を求むることきわめて急なり。六月の末、江戸に来たるにおよんで夷人の情態を見聞し、七月九日獄に来たり、天下の形勢を考察し、神国の事、なほなすべきものあるを悟り、はじめて生を幸とするの念勃々たり。

 吾れもし死せずんば、勃々たるもの決して汨没せざるなり。しかれども十六日の口書、三奉行の権詐、吾れを死地におかんとするを知りてより、さらに生を幸ねがふの心なし、これまた平生学問の得力しかるなり。

一、今日死を決するの安心は四時の順環において得るところあり。

 けだし彼の禾稼を見るに、春種し、夏苗し、秋刈り、冬蔵す。秋冬に至れば人みなその歳功の成るを悦び、酒を造り醴を為つくり、村野歓声あり。いまだかつて西成にのぞんで歳功の終はるを哀かなしむものを聞かず。

 吾れ行年三十。一事成ることなくして死して、禾稼のいまだ秀でず実らざるに似たれば、惜しむべきに似たり。しかれども義卿の身をもつていへば、これまた秀実のときなり、何ぞかならずしも哀しまん。何となれば人寿は定まりなし。禾稼のかならず四時を経るごときにあらず。十歳にして死する者は十歳中おのづから四時あり。二十はおのづから二十の四時あり。三十はおのづから三十の四時あり。五十、百はおのずから五十、百の四時あり。十歳をもつて短しとするは、蛄をして霊椿たらしめんと欲するなり。百歳をもつて長しとするは、霊椿をして蛄たらしめんと欲するなり。斉しく命に達せずとす。

 義卿三十、四時すでにそなはる、また秀でまた実る。その秕しひなたるとその粟たると、わが知るところにあらず。もし同志の士、その微衷をあわれみ継紹けいせうの人あらば、すなはち後来の種子いまだ絶えず、おのづから禾稼の有年に恥ぢざるなり。同志それ、これを考思せよ。

一、東口揚屋あがりやに居る水戸の郷士堀江克之助、余いまだ一面なしといへども真に知己なり、真に益友なり。余に謂いつて曰く、「昔、矢部駿州は桑名侯へお預けの日より絶食して敵讐を詛のろひて死し、果たして敵讐を退けたり。いま足下もみづから一死を期するからは祈念を籠めて内外の敵を払はれよ、一心を残し置きて給はれよ」と丁寧に告戒せり。吾れ、まことにこの言に感服す。また鮎沢伊太夫は水藩の士にして堀江と同居す。余に告げて曰く、「いま足下の御沙汰もいまだ測られず、小子は海外におもむけば、天下のことすべて天命に付せんのみ。ただし天下の益となるべきことは同志に托し後輩に残したきことなり」と。

 この言、大いに吾が志を得たり。吾れの祈念を籠むるところは、同志のかひがひしく吾が志を継紹して尊攘の大功を建てよかし、なり。吾れ死すとも堀・鮎二子のごときは海外にありとも獄中にありとも、吾が同志たらん者、願はくは交を結べかし。また本所亀沢町に山口三といふ医者あり。義を好む人と見えて、堀・鮎二子のことなど外間にありて大いに周旋せり。とても及ぶべからざるは、いまだ一面もなき小林民部のこと、二子より申しつかはしたれば、小林のためにもまた大いに周旋せり。この人、想ふに不凡ならん、かつ三子への通路はこの三老に托すべし。

一、堀江、つねに神道をあがめ、天皇を尊び、大道を天下に明白にし、異端邪説を排せんと欲す。謂おもへらく、天朝より教書を開板して天下に頒示するに如しかずと。余謂おもへらく、教書を開板するに一策なかるべからず。京師において大学校を興し、上、天朝の御学風を天下に示し、また天下の奇材異能を京師に貢し、しかるのち天下古今の正論確議を輯集いしふして書となし、天朝御教書の余を天下にわかつときは、天下の人心おのづから一定すべしと。

 よつて平生子遠と密議するところの尊攘堂の議と合はせ堀江に謀り、これを子遠に任ずることに決す。子遠もしよく同志と謀り、内外志をかなへ、このことをしてすこしく端緒あらしめば、吾れの志とするところもまた荒せずといふべし。

 去年、勅諚綸旨のこと一跌すと雖も、尊皇攘夷いやしくも已やむべきにあらざれば、また善術を設け前緒を継紹せずんばあるべからず。京師学校の論、また奇ならずや。

一、小林民部いふ、京師の学習院は定日ありて、百姓町人に至るまで出席して講釈を聴聞することを許さる。講日には公卿方出座にて、講師菅家・清家および地下ぢげの儒者あひ混ずるなり。しからばこの基によりて、さらに斟酌を加へば幾等も妙策あるべし。また懐徳堂には霊元上皇宸筆の勅額あり、この基により、さらに一堂を興すもまた妙なり、と小林いへり。

 小林は鷹司家の諸太夫にて、このたび遠島の罪科に処せらる。京師諸人中、罪責きはめて重し。その人、多材多芸、ただ文学に深からず、処事の才ある人と見ゆ。西奥揚屋にて余と同居す。のち東口に移る。京師にて吉田の鈴鹿石州・同筑州別して知己の由。また山口三も小林のために大いに周旋したれば、鈴鹿か山口かの手をもつて、海外までも吾が同志の士、通信をなすべし。京師のことについては後来かならず力を得るところあらん。

一、讃の高松の藩士長谷川宗右衛門、年来主君を諌め、宗藩水家と親睦のことにつきて苦心せし人なり。東奥揚屋にあり。その子速水、余と西奥に同居す。この父子の罪科いかん、いまだ知るべからず。同志の諸友、切に記念せよ。

 予はじめて長谷川翁を一見せしとき、獄吏左右に林立す。法、隻語をまじふることを得ず。翁、独語するもののごとくして曰く、「むしろ玉となりて砕くるとも、瓦となりて全かるなかれ」と。吾れはなはだその意に感ず。同志それ、これを察せよ。

一、右数条、余いたづらに書するにあらず。天下のことを成すは天下有志の士と志を通ずるにあらざれば得ず。しかして右数人、余この回あらたに得るところの人なるをもつて、これを同志に告示するなり。

 また勝野保三郎、はやすでに出牢す。つきてその詳を問知すべし。勝野の父、豊作、いま潜伏すといへども有志の士と聞けり。他日ことたひらぐを待ちて物色すべし。今日のこと、同志の諸士、戦敗の余、傷残の同士を問訊するごとくすべし。一敗すなはち挫折する、あに勇士のことならんや。切に嘱す、切に嘱す。

一、越前の橋本左内、二十六歳にして誅せらる、実に十月七日なり。左内東奥に坐する、五六日のみ。勝保同居せり。後、勝保西奥に来たり予と同居す。予、勝保の談を聞きてますます左内と半面なきを嘆ず。

 左内幽囚邸居中、資治通鑑しぢつがんを読み、註を作り漢紀を終はる。また獄中、教学工作等のことを論ぜし由、勝保、予がためにこれを語る。獄の論、大いに吾が意を得たり。予、ますます左内を起して一議を発せんことを思ふ。嗟夫ああ。

一、清狂の護国論及び吟稿、口羽の詩稿、天下同志の士に寄示したし。ゆゑに余、これを水人鮎沢伊太夫に贈ることを許す。同志それ、吾れにかはりてこの言をふまば幸甚なり。

一、同志諸友の内、小田村・中谷・久保・久坂・子遠兄弟等のこと、鮎沢・堀江・長谷川・小林・勝野等へ告知しおきぬ。村塾のこと、須佐・阿月等のことも告げおけり。飯田・尾寺・高杉および利輔のことも諸人に告げおきしなり。これみな吾がいやしくもこれをなすにあらず。


かきつけ終りて後


心なることの種々かき置きぬ

  思い残せることなかりけり

呼びだしの声まつほかに今の世に

  待つべきことのなかりけるかな

討たれたる吾れをあはれと見ん人は

  君を崇めて夷えびす払へよ

愚なる吾れをも友とめづ人は

  わがとも友どもとめでよ人々

七たびも生きかへりつつ夷をば

  攘はんこころ吾れ忘れめや

十月二十六日黄昏書す    二十一回猛士



【現代語訳】

身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも

        留め置かまし大和魂
十月二十五日 二十一回猛士

第一章
私の気持ちは昨年から数えきれぬほど何度も移り変わってきた。とりわけ私が趙の貫高や、楚の屈平のようにありたいとしてきたのは皆の知る通りであろう。だからこそ、入江杉蔵(九一)は、送別の句として、「燕や趙の国には多くの人がいるが、貫高のような人物は一人しかいなかったし、荊や楚にも深く国を思う人は屈平だけだった」という句を贈ってくれたのだ。実は、五月十一日、江戸送りのことを聞いてから、「誠」という言葉について考えたのだが、この時に入江杉蔵が「死」の文字を贈ってくれた。しかし私は「死」については考えず、一枚の木綿の布に「孟子にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」の句を縫い付けて江戸へ持参した。私が評諚所に留め置かれたのは、私の志を表す為であった。昨年から(安政5年)、朝廷と幕府の間では意思が通じていないようだ。いやしくも私の真心が伝われば自ずと幕府の役人も分かってくれる、そう想いを決め、やらなければならないことを考えた。しかし、蚊のような小さな虫でも群れを成せば山を覆ってしまうの例え通り、幕府の小役人たちに握りつぶされ、とうとう何もできないまま、今日に至ってしまった。私の徳が薄いので至誠を通じることができなかったと受け取るべきであろう。今さら誰を咎め怨むことがあろうか。誰も怨むことはない。


第二章
七月九日、初めて評定所から呼び出しがあった。寺社奉行・松平伯耆守宗秀、勘定奉行・池田播磨守頼方、町奉行石・石谷因幡守穆清ら三奉行による取調べがあり、次の二点について私を尋問した。一つは梅田雲浜が萩へ来たとき何か密談をしたのではないか、ということ。二つ目は「御所内に落とし文があったが、筆跡が似ているのでお前が書いたのではないか。覚えはないか」と尋ねられた。訊問は、この二点だけであった。梅田は奸計に長けていると感じるところがあるので、私は「梅田は胸襟を開いて語り明かすほどの者ではない。そういう意味で彼と密議などするはずがない。私は公明正大であることを好む。どうして落文などという隠れごとをしようか」とはっきり答えた。その後、私は六年間幽囚の身で苦心して確信した所説を披歴し、ついに大原重徳(おおはらしげとみ)を萩に迎え、長州藩を中心として志ある藩で挙兵しようという計画したこと、更には、老中・間部詮勝の要撃計画を話したので、獄に入れられる身となった。


第三章
私は激しい性格で人から罵られると我慢が出来ない。だから、今回は時の流れに従って人々の感情に適応するように心がけてきた。そして、幕吏に対しても、幕府が勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印したのはやむをえないことであると述べた上で、その後の措置こそが肝要であると論じた。私が説こうとするのはすでに「対策一道」に書いた通りであるのだが、こうした私の姿勢には幕吏もさすがに怒ることはなかったが、私の説に対しては、幕吏は「言っていることが全く的を得ておらず、身分の低い者でありながら国家の大事を論ずるなど不届きである」と弁じた。私はそれに抗わず論争を避け、ただ「このことが罪になるというのなら、罪を避けようとは思わない」とだけ述べた。幕府の法では、庶民が国を憂うことを許していない。その善し悪しについては、私もこれまで議論をしたことはなかった。

 聞くところによると、薩摩藩の日下部伊三次(いそうじ)は、取り調べの際に、幕府の失政を次々にあげ、「このようなことを続けていれば、幕府はこの先、三年はおろか五年も存続できないだろう」と述べて幕吏を激怒させた。さらに「これで死罪になろうとも悔いはない」と云い放ったという。この気概は私ですら及ばない。私は、入江杉蔵が私に死を覚悟するよう求めたのも、こういう意味だったのかと思う。思えば、唐の人、段秀実は郭曦には誠意を尽くし、朱泚(しゅせい)には激しく非難しために殺された。こうして見ると、英雄と云われるべき人物は、時と所により、それにふさわしい態度で臨んでいる。大事なことは自分を省みて良心に恥じない行いをする事である。そして、相手をよく知り、好機をとらえることが大切だ。私の、人としての価値は、死後に棺桶を蓋で覆って始めて評価されるべきものである。


第四章
このたびの調書は、甚だ粗略なものであった。七月九日に一通リ申し立てた後、九月五日、十月五日の両度の呼出の時も大した取り調べもないままに十月十六日に至り、供述書の読み聞かせがあり、直ちに署名せよとの事であった。私が苦心をして述べたアメリカ使節との外交交渉や海外渡航の雄大な計画に関する考えは一つも書かれず、ただ数か所のみ開港の事に触れ、国力充実の後、打払うべきなどと、私の心の真意ではない愚にもつかないようなことを書き付けて供述書としていた。私は、言っても無駄であることを悟り、敢えて抗弁しなかったが、不満が甚だしく残った。安政元年の下田踏海での取調書と比べると雲泥の差だというほかない。


第五章
七月九日、大原重徳公を長州に迎える策、老中間部詮勝要撃策の事を一通り申し述べた。これらのことは幕府も既に事前情報で承知していると思われたので、誤解なきように明白に述べておいた方が却って良かろうと思い申し立てしたが、幕府は全く知らなかったようであった。幕府の知らないことまで述べた事により、多くの仲間内に累が及び無関係の人を傷つけることになってしまっては、毛を吹いて傷を求める喩えのように、強いて他人の欠点を探し求めれば却ってこちらの欠点を晒すことになるになると思い直した。だから、間部要撃の件についても「待ち伏せて襲撃する要撃」から「待ち伏せて諌める要諌」と言い替えた。又、京都で連判した同志の姓名なども、隠して明らかにしなかった。これは、後の運動の為を思ってしたささやかな私の老婆心からである。これにより、幕府が、私一人を罰して他に累を及ぼさなかったのは大変喜ぶべきことであろう。同志諸君、この辺りの事を深く考え起ち上がって欲しい。


第六章
間部「要諌(ようかん)」の件で、もし諌めることが出来なかった時は刺し違えて死に、警護の者がこれを邪魔する時は切り払うつもりだったというのは、実際には私が云っていないことである。ところが三奉行が強いてこの文言を書き記し、私を罪に陥れようとした。このような偽りの罪をどうして受け入れられようか。そこで私は十六日、供述書の署名の席に臨んで、石谷、池田の両奉行と大いに言い争った。私は、死を恐れたのではなく、両奉行の権力によるごまかしに屈服しない為である。これより先の九月五日、十月五日の両度の取り調べの際に、吟味役に詳細に話したことは、命を掛け間部を諌めようとしたことであり、必ずしも刺し違えや切り払いの策を講じていたのではないということだった。吟味役もこのことを十分に認めていたのに、供述書には「要撃」と書き記されているのはごまかし以外の何物でもない。だが、事ここに至っては刺し違え、切り払いのことを私があくまで否定したのでは却って我々の信念の激烈を欠くことになり、同志の諸友も惜しいと思うであろう。私も惜しいと思わない訳ではない。しかし、繰り返し考えると、志士たる者が仁のために死ぬという事は「刺し違える」とか「切り払う」などの言葉は問題ではない。今日私は、権力の奸計によって殺されるのである。全ては天地神明の照鑑(しょうかん)上にある。何も惜しむことはない。


第七章
私は、このたびのことで最初から生を得ようとは考えなかった。また、死を求めたこともない。ただ、自分の誠が通じるかを天に委ねてきた。七月九日、取り調べを行った役人の態度からほぼ死を覚悟した。私はそれを詩に書き留めた。「明の国の楊継盛という人は、政治の実権を握った厳嵩(げんすう)の横暴を訴えたことにより処刑されたが、彼は忠誠を貫いて死ぬ事に満足したであろう。漢の名医・淳干意(じゅんうい)は、罰せられた時、命乞いをしてまで生きることを望まなかったであろう」。ところが、その後の九月五日、十月五日の二度の取調べが寛容なものだったので、ひょっとしたら死罪を逃れることができるかと思い、これを喜んだ。これは、私が命を惜しんだのではない。昨年の大晦日(安政五年十二月三十日)、攘夷は一時猶予、いずれ公武合体により攘夷すべしとの勅状が幕府に下った。今春の三月五日、長州藩主・毛利敬親(よしちか)公は萩を出発した。敬親公を伏見で迎え公卿と会って頂き、そこで攘夷の働きかけをしようとした私の計画は、ここで完全に失敗した。そこで万策尽きたので死を求める気持ちが強くわき起こった。しかるに六月末、江戸に来て、外国人の様子を見聞きし、七月九日、獄に繋がれたてからも、天下の形勢を考察するうちに、日本の為に私が為さねばならないことをがあると悟り、ここで初めて生きたいという気持ちがふつふつと湧いてきたのだ。私が死罪とならない限り、この心に湧き立つ気概は決してなくなることはないだろう。しかし、十六日に行われた調書の読み聞かせで、裁きを担当する三奉行がどうあっても私を処刑にせんとしていることがはっきりし、生き長らう気持ちはなくなった。私がこういう気持ちになれたのも、平素の学問の力であろう。


第八章
今日、私が死を覚悟して平穏な心境でいられるのは、春夏秋冬の四季の循環の哲理を悟ったからだ。つまり、春に種を蒔き、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。秋、冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ち溢れる。未だかって、この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるのを私は聞いたことがない。

私は現在三十歳。いまだ事を成就させることなく死のうとしている。農事に例えれば未だ実らず収穫せぬままに似ているから、そういう意味では生を惜しむべきなのかもしれない。だが、私自身についていえば、私なりの花が咲き実りを迎えたときなのだと思う。そう考えると必ずしも悲しむことではない。なぜなら、人の寿命はそれぞれ違う。四季は定期的に巡って営まれるが、人の寿命はそのようなものではないのだ。

しかし、人にはそれぞれに相応しい春夏秋冬があると言えるだろう。十歳にして死ぬものには十歳の中に自ずからの四季がある。二十歳には二十歳の四季が、三十歳には三十歳の四季がある。五十歳には五十歳の、百歳には百歳の四季がある。十歳をもって短いというのは、夏蝉(せみ)のはかなき命を長寿の霊木の如く命を長らせようと願うのに等しい。百歳をもって長いというのも長寿の霊木を蝉の如く短命にしようとするようなことで、いずれも天寿に達することにはならない。

私は三十歳、四季はすでに備わっており、私なりの花を咲かせ実を付けているはずである。それが単なる籾殻(もみがら)なのか、成熟した栗の実なのかは私の知るところではない。もし同志の諸君の中に、私がささやかながら尽くした志に思いを馳せ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それは即ち種子が絶えずに穀物が毎年実るのと同じ事であるから、何ら恥ずべきことではない。同志諸君よ、この辺りのことをよく考えて欲しい。

 

【第九章】
東口揚屋(松陰は西口にいた)にいる水戸の郷士・堀江克之助(ほりえよしのすけ)とはこれまで一度もあったことはなかったが、しかし、彼は真の知己であり有益な友である。彼が私に言った。「その昔、幕臣の矢部駿州は、政策の違いから桑名藩へお預けとなり、その日より絶食し仇敵を呪って死に絶えましたが、その後、彼の制作が正しかったことが証明され、ついには仇敵を失脚させることができました。今、あなたも自ら死を決意するからには、心に念じて内外の敵を打ち払うことです。そして、その心をこの世に書き残しておいて下さい」と、丁寧に忠告してくれた。私は、その言葉に心から感服した。又、水戸藩士であり、堀江と同じ獄にいる鮎沢伊太夫(あゆざわいだゆう)は私に言った。「あなたの沙汰がどう出るかは分からないが、もし自分が島流しになれば、天下の事は全て天命に委ねるしかあるまい。但し、天下にとって利益になることについては同志に託し、言い置くべきことを伝えておかねばならないと考えます」。この言葉は、私と意を同じくするものだった。私が心に念じることは、同志が私の志を継承し、必ずや尊王攘夷に大きな功を立ててほしいということである。私が死んでも、堀江、鮎沢の両氏は島流しになろうが獄に繋がれようが、私の同志たらんとする者は彼らと交わりを結んで欲しい。又、本所亀沢町に山口三輶(やまぐちさんゆう)という人がいる。彼は義に厚い人のようで、堀江、鮎沢の両氏を獄外から支援されている。私がこの人に及ばないと思ったのは、小林民部(こばやしみんぶ)のことを、堀江、鮎沢の両氏から伝え聞き、小林の為にも尽力していることだ。この人は思うに、非凡な人だと思われる。この三人へ連絡するには、この三人をよく知る山口三輶に頼んだらよい。


第十章
堀江克之助は神道を崇め、天皇を崇敬し、その御政道を明らかにし、異端や邪説を排除する事を望んでいる。彼は、朝廷から教本を発行して、天下に配布するのが良いと考えているが、私は、教本の発行をするには一つの方法があると思う。それは身分の分け隔てなく学ぶことが出来る大学を京都につくり、皇室の学風を天下に示すことだ。全国の優秀な才能、人材を京都に集め、天下古今の正論、定説を編集して書物をつくり、それを朝廷で教習したのち、これを世に広めていけば、人心は自ずと定まるだろう。そこで、私が平素より入江杉蔵と密議し、尊攘堂建設のことを堀江に相談し、この役を杉蔵に任すことに決めた。杉蔵が同志と相談することにより、内外の同志から協力を得ることが出来れば、私の志した計画も無駄にはならない。去年、勅諚や綸旨を得ようとした企ては失敗したが、尊王攘夷運動は決してやめるべきではないから、今後も良い方法を考え、先人の志を継承せねばならない。そのためにも、京都に学校を作ることは素晴らしいことではある。


第十一章
小林民部が言うには、京都の学習院は日を決めて百姓町人に至るまで出席させて講釈を聴聞することが許されているそうだ。講義の日には、公卿方が出向き、講師として菅原家、清原家及び官位を持たない儒者も加わり行われるそうだ。これを基本にして考えれば、更に良い方法が見つかることだろう。又、大阪の懐德堂には、霊元上皇の直筆の扁額(門や部屋に掛ける横に長い額)があるので、これを基としてもう一つの学校を起すのも良い考えだと言っている。小林民部は、公卿である鷹司家の諸大夫であるが、このたび島流しの罪に処せらている。安政の大獄に連座した京都の同志の中でも罪が大変重い。この人は、有能にして芸事にも深く通じた方であるが、文学には余り深くないようだ。ただ、物事を的確に処理する才能を持つ人らしい。伝馬町の西奥揚屋牢にて私と同居していたが、後に東口に移された。小林は、京都の吉田神社の鈴鹿石州や筑州とは特に親しいらしい。又、江戸の山口三輶も小林の為に大いに尽力しており、鈴鹿か山口を通じて配流先の小林まで連絡を取ることを同志に勧めたい。京都で事を為す時は、必ずや力になってくれるであろう。


第十二章
讃岐の高松藩士・長谷川宗右衛門は、数年にわたり藩主を諌め、藩主と水戸藩との橋渡しに大いに努めた人物である。今、彼は息子の速水と共に捕らえられ、彼は東の牢屋に、息子の速水は西の牢屋で私と一緒だが、この父子の罪を私は未だに知らない。私が初めて長谷川翁を見た時、そこには獄吏が立っていて言葉を交わせなかったが、彼は独り言のようにして次のように言った。「玉(ぎょく)となって砕(くだ)かれようとも、瓦(かわら)となって生きながらえてはならない」。私はその言葉に深く感動した。同志諸君、その時の私の気持ちを察して欲しい。


第十三章
今まで書き記したことは、無駄に書き留めたものではない。天下の事を成功させるためには、天下の有志のもののふとしての志を通じなければ達成し得ない。私がここに記した数人に関しては、今回、新たに知り得た人物なので、これを同志に知らせておく。なお、勝野保三郎(やすさぶろう)は既に出獄している。したがって、何かにつけて、彼に詳細を尋ねるとよい。勝野の父の正道は今潜伏中だが、有志の士と聞いている。いずれ、頃合いをみて探し出すと良い。同志の諸士は、安政の大獄という戦いに敗れ傷ついた志士にそのいきさつを聞き、今後の参考にせよ。一度失敗したくらいで挫折するようでは、どうして勇士といえようか。このことを切に頼む。頼むぞ。


第十四章
越前の橋本左内は二十六歳にして処刑された。十月七日のことであった。左内は東奥の牢に五、六日ばかり居ただけで処刑されたのである。その時、勝野保太郎が橋本左内と同獄だった。後に勝野は、西奥の牢に来て私と同獄となったが、私は、勝野から左内の話を聞いて益々、左内と会えなかったことを残念に思っている。左内は、自邸内に幽閉されていた時、「資治通鑑」を読み、注釈を書き、「漢紀」も読破したという。又、獄中では、「教学や技術の事についていろいろと論じた」と勝野は私に話してくれた。勝野は、私の為にこれを語ってくれたが、左内の獄中の論は、私を大いに納得させた。私は、益々、左内を甦らせて議論をしてみたいと思うが、左内はもうこの世にいない。ああ、とても残念なことだ。


第十五章
僧・月性(げっしょう)の護国論及び吟稿、口羽把山(くちははざん)の詩稿、いずれも天下の同志達に見せたいと思う。そこで私は、これを水戸藩の鮎沢伊太夫に贈ることを約束した。同志のうち誰か私に代わってこの約束を果たしてくれるとありがたい。


第十六章
同志諸友の内、小田村伊之助、中谷正亮(しょうすけ)、久保清太郎(せいたろう)、久坂玄瑞、入江杉蔵と野村和作兄弟たちのことを、鮎沢、堀江、長谷川、小林、勝野たちヘよく話しておいた。松下村塾の事、須佐、阿月(あつき)の同志の事、飯田正伯(しょうはく)、尾寺新之丞(おてらしんのじょう)、高杉晋作及び伊藤利輔(後の博文)の事もこれらの人に話しておいた。これは私が軽い気持ちで話したのではないということは分かってほしい。


かきつけが終わった後に


「心なる ことの種々 かき置ぬ 思ひ残せる ことなかりけり」


「呼びだしの 声まつ外に 今の世に 待つべき事の なかりけるかな」


「討たれたる 吾をあわれと見ん人は 君を崇めて 夷払へよ」 


「愚かなる 吾をも友と めづ人は わがとも友と めでよ人々」 


「七たびも生きかえりつつ夷をぞ攘はんこころ 吾忘れめや」


十月二十六日黄昏に書く 二十一回孟士