大同元年(806)に現奈良市・新薬師寺の鎮守として勧請された鏡神社。
 
元宮は現佐賀唐津市の神功皇后が祀った御神鏡ゆかりの鏡神社で、ここに合祀されていた藤原広嗣の御霊を分霊して奈良の現在の鏡神社鎮座地に社殿を創建した。
祭神の藤原広嗣とは、奈良時代に西国で反乱を起こして処刑された人物だ。
 
藤原広嗣は、藤原不比等の孫にあたる。
藤原不比等は、朝廷で絶大な力を持っていた、かの橘三千代を前夫の美努王から略奪した挙句自身の妻とする事によって朝廷での立場を固めた上で、自らの娘・光明子を聖武天皇の元へ、皇統の伝統としては異例である民間皇后として入内させる事により、新興氏族の藤原氏の興隆を図った。
そして広嗣の父にあたる藤原宇合(不比等の三男)の時代になると、更に野望を強くする新参の藤原一族と、旧来の皇統の在り方を遵守せんとする橘諸兄や吉備真備ら古参勢力とが熾烈な政権闘争を展開し始めた。
折しも、國體遵守を掲げる古参の旧勢力らの頼みの綱であった長屋王が宇合ら所謂「藤原四兄弟」によって謀殺された直後の権謀術数の蔓延る陰惨とした世相にあたり、その煽りか、はたまた謀殺された者の祟りか、都は天然痘大流行という天災に襲われ、宇合を始めとした藤原四兄弟全て天然痘に罹患し悉く病死するという事態に陥っていた。
そして、この機に乗じんとばかりに、古参勢力は藤原氏の中央政権からの抹殺を画策、藤原氏の人々は次々に左遷され、漏れなく広嗣もまた西国へ左遷されてしまった。
広嗣はこの処遇を不服とし、一連の厄災は玄昉や真備らによる呪詛によるものであるとする上奏文を朝廷に奉ったところ、玄昉らを擁護していた橘諸兄の逆鱗に触れ、広嗣の行為を朝廷への叛逆行為であると非難した。
時の帝・聖武天皇から召喚の勅命が下されても尚広嗣は尚引き下がらず、太宰府で挙兵をするも朝廷軍に討伐され、あえなく佐賀で処刑されてしまった、という悲劇の人物だ。
その非業の最期の為に、広嗣の祟りを恐れた人々が祟り封じとして祀ったのが佐賀の鏡神社創祀の由来となっている。
菅原道真や井上内親王を祀る御霊信仰と同様の祀りである。
 
ちなみに、奈良・鏡神社の本殿は、江戸時代になってから、藤原氏の氏神である春日大社本殿を移したもので「春日移し」と呼ばれる。
広嗣の祖神の総氏神である春日大社の御神威を以て、その御霊を慰め祟りを更に封じようという、当時の人々の真心が、この美しい社殿からひしひしと感じられた。