川津集落の南西方、十津川の曲流地に突出した岬状の崖上に鎮座する国王神社へ。


「国王神社」とは、なんともインパクトのある社名ですが、実は「国玉神社」というのが元の社名であった事が今回の現地調査にて判明しました。

尚、この「国王神社」の神額は大久保利通公の揮毫によるものだそうで、ここでもまた、維新の南朝崇敬の厚い気運が感じられます。


文中元年(1372)に、第96代後醍醐天皇の孫で第98代(※吉野朝(南朝)第3代帝)の長慶天皇の勅願により創建されました。

文中二年8月、弟の後亀山天皇に譲位、同年10月まで紀伊国玉川の宮にいらっしゃいましたが、北朝側の賊徒の襲撃を受け大和国天川村の五色谷行在所へ御遷幸されました。



しかし、ここでも度々、賊徒の襲来を受けられ、その都度、嘗て大塔宮護良親王も匿われた天川・御手洗渓谷の上方・観音峯(標高1347m)山中の洞窟「観音岩屋」へ天川郷士らが案内し潜まれ難を逃れられました。




弘和2年(1382)にはこの洞窟までもが賊徒に襲われ、追い詰められた長慶天皇はもはやこれまでと、増水中であった御手洗滝・光の滝(みたらい滝の上流)の廻り岩辺りで自害遊ばされてしまいました。

現在、この観音岩屋の入口には鳥居と祠も残っていて、この哀史を今に伝えています。

現・みたらい渓谷に「哀伝橋」と名付けられた橋が掛かるのもその為です。


~吉野山 花そ散るらん天の川 

雲の包みを崩す  白波(長慶天皇 御製)~


~よしの山 花ぞちるらん天の川 くものつつみをく     ずすしらなみ(大塔宮護良親王 御歌)~


その際、天皇の側近らがそのご遺体を水葬に伏したのですが、数日の後、天皇の御首が下流の十津川村上野地字河津の渕(現在地付近 ※一説に御玉体は自害地である御手洗渓谷で引き揚げられたとも)へ流れ着き、毎夜水底より不思議な一条の光を発しました。

これを見つけた当地の村人らは、御物、御玉体を同じく行在所とされた光遍寺、弁財天社、午頭神社、伊波多神社、御首は現・国王神社境内地へ葬り、玉石を安置して「南帝陵」「御首塚」とお呼びし、人々の厚い崇敬を受けました。

 

祭神は、長慶天皇、相祭神として素盞鳴命、金山彦命、伊弉冊命、事解男命、速玉男命、田心姫命、保食神。

もちろん、元々は相祭神が主祭神であり、これらを国家を鎮める「国の霊魂神=国玉」として長慶天皇が勅願されたから元々の社名は「国玉神社」であった訳で、後に、長慶天皇が合祀された事で必然的に長慶天皇が主祭神となった事から、社名も「国玉神社」から「国王神社」へと変遷を辿ったものと推測されます。


毎年例祭日には、上野地より境内に武者行列による練り込み礼式が古例に則って挙行されるとか。
いずれにせよ、600年以上に亘り、十津川郷士らが変わらず長慶帝始め南朝帝を大切に奉祀されてきた事に感無量。

 

駐車場の奥の「南帝稜⇒」から国王神社への降り口がありますがこちらは近道であるものの、かなり急な坂道になっています。

少し川上方向にも緩い降り口がありますが、こちらは少し遠回り。

ご自身の足の加減により、降り口を選択頂ければよいかと思います。

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