滋賀県東近江市萱尾町に鎮座する大瀧神社へ。
以前から、東近江市から大瀧神社に至る八風街道は、倭建命巡行ルートの調査の為に頻繁に往復していたのですが、県道沿いの深い谷間に鎮座するこの神社鳥居前に差し掛かった地点で必ず大型ダンプとのすれ違い現象が起こり、その都度、大瀧神社鳥居前で否応なく車を引き留められる不思議な現象が頻発。
 
これは、「大瀧神社の神に呼ばれた」というような不思議な使命感にかられ、七夕の日である7月7日、数霊にして非常に霊力の増大する日に参拝に上がらせて頂きました。
 
当社の御祭神は角凝魂命(つのごりたまのみこと)と天湯川桁命(あまのゆかわげたのみこと)。
第六十代醍醐天皇延期元年の創祀で、式内社川桁神社神崎郡2社の内1社の論社(幾つか他に比定地がある)であり、山中の神社でありながら、式内社という非常に古い由緒と「従一位」という非常に高位の神階を誇る神社である事に驚きました。
 
御祭神の角凝魂命とは、須佐之男命と同一視される説もあり、第十一代垂仁天皇の皇子・誉津別命(ほむつわけ)に白鳥を献上した天湯川田奈命の祖先神であり、角凝魂命の子に少彦名神が見え、出雲神とゆかり深き神。
もう一柱・天湯川桁命(あめのゆかわたな)とは、先述の天湯川田奈命と同一の神であり、角凝魂命とは親子の関係であり、天湯川桁命の子に少彦名神がいます。
 
神社近くの黄和田集落は全国木地師発祥地ですが、村人達に初めて木地師の技術を教えたのは平安時代初期の第五十五代文徳天皇の第一皇子・惟喬親王でした。
なぜ、惟喬親王が、京を遠く離れたこの山奥で隠棲されたかと申せば、実は、乙巳の変(大化の改新)以降、朝廷で大きな権力者となっていた藤原氏から、母方として紀氏を持つ惟喬親王の立太子を阻まれ、藤原氏を母とする第四皇子・惟仁親王(後の清和天皇)を立太子する動きが画策、危うく両統迭立に至る危険性があった時代にあり、惟喬親王は、國體護持として両統迭立など決してあってはならぬと思われ、国家の為に自ら身を引かれ山中に隠棲されたのでした。
身を以て國體を護持された惟喬親王のご決断はとても立派であられた事は間違いありません。
そして、惟喬親王の時代から五代後の第六十代醍醐天皇の御代、藤原氏専横により神事中心の国の在り方が崩れていくさなか、延喜式を制定する事により神事を中心とする国是を明確に宣明されたという歴史的事実は、南北朝時代にも大きく関わる事でもあります。
 
延喜・天暦の治は、ややもすると、「平安時代隆盛の時」又は「最も平和な時代」とのみ定義づけられますが、元来、この治世を評するに最も評価すべきは、国家の在り方を神祇官をトップに据える事にの神事を中心とした元来の國體への大きな回帰運動であったという事を知らねばなりません。
延喜式の中に「神名帳」の条があり、ここに選定された神社とは、間違い無く由緒の古い神社であり、古代から官幣社、又は国幣社(平安時代にいずれも国家機関によって官社として認識された神社)とされた社格の高い神社という事になります。
神社史のみならず、古代史を見る上で『延喜式神名帳』の記録は非常に重要な鍵となるのはもちろんですが、殊、神社について知る上に於いて、延喜式内社か否かを確認する事は必須であると私自身は考えています。
 
身を以て皇位継承を守った惟喬親王の事蹟は、國體の真髄を知る為にも、しっかりと学んでおかねばなりません。
そして、天に両帝が並び立つ等、国家恒久哲理に反する事として惟喬親王が身を以て庇われた事態を安易にもひっくり返し、皇位継承に介入し両統迭立なる極めて権力闘争が頻発激化する方向へ誘導し國體と国内情勢を混乱せしめた鎌倉幕府の罪は重く、逆に申さば、醍醐天皇に倣われた後醍醐天皇が目指された建武中興の真の理念の真髄を理解する事ができます。
 
また、永源寺ダムから更に東の山深くへと分け入った奥永源寺辺りの県道沿い、萱尾大瀧の近くに鎮座する大瀧神社は、古くから雨乞信仰と密接な関係があり、神社裏手の萱尾大瀧に纏わる勇壮な古代伝統神事「飛龍神事」が古来から斎行されてきましたが、昭和46年の愛知川ダム建設に伴って幾つかの集落がダム湖の底に水没、その水没集落の一つに萱尾集落があり、これらの集落と共に、伝統神事、歴史と共に湖底深く水没し今に至っています。
 
歴史や伝統の喪失は民族の解体に直結します。
歴史を正しく知らねば、未来の正しい舵取りはできません。
 
何度でも申し上げますが、歴史は繰り返します。
だからこそ、我々は歴史を学び未来の国家経営に活かす事が求められるのです。