島根半島成立の「国引き神話」に於ける新羅との関わりの記述に思う処があり、自身の目で確かめるべく、国引きの神も立たれたかもしれぬ「国引きの丘」から、まずは地理的観点から出雲風土記について考察、顕彰をしてきました。
 
三瓶山の北の原(天井原)には、新羅から引き寄せた島根半島の山塊と日本海とを共に眺められる数少ない眺望ポイント「国引きの丘」があります。
晴れた日の夜には、美しい星と、漁火の美しい輝きとを見る事もでき、オススメの絶景地です。
 
『古事記』編纂のひと足先にまとめられた『出雲風土記』によると、神代の昔、この地は八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が今の出雲半島をお造りになられた舞台。
命は、丁度この辺りから出雲の国を見渡して「この国は、細長い布のように小さいので、どこかの国を縫いつけて大きくしよう」と思われ、どこかに余分な土地はないかと海の向こうを眺めたところ、新羅なる余った土地があるのを見つけ、幅の広い大きな鋤を新羅の土地に打ち込みんで切り離し、丈夫な綱をかけて、「国来、国来(くにこ、くにこ)」と言いながら力一杯こちら側へ引っ張ると、その土地はゆっくりと動いてきて出雲の国にくっつきました。
こうして合わさった国が、杵築のみさき(現在の出雲市小津町から日御碕)となり出雲大社が鎮座されます。
国引きの綱に当たるのが国譲り神話の舞台・稲佐の浜から西に伸びる薗の長浜で、綱を固定した杭が三瓶山(佐比売山)だと言われています。
 
その後も、命は北の方の国から同じように狭田(さだ)の国(現在の小津から東の鹿島町佐陀)と、闇見(くらみ)の国(現在の松江市島根町辺り)を引っ張って繋ぎ、最後に北陸地方の高志(こし)の国から引っ張ってきた国が三穂の埼(現在の松江市美保関町の辺り)となりました。
尚、狭田国には佐太(さだ)神社が、三穂の埼には美保神社があるほか、闇見国と呼ばれた地には漢字の読みが同じ久良彌(くらみ)神社が鎮座しています。
この他、狭田国の近くにある島根半島の洞窟・加賀(かか)の潜戸(くけど)には、黄金の矢が洞窟内を照らし佐太大神(さだのおおかみ)が生まれたという神話も残されています。
 
全ての出雲生みを終えられた命は杖をお突きになって「おえ。」と言われ、終了宣言をされましたが、この終了宣言の言葉が、この地の地名が意宇の杜(現在の松江市東部にある地)と呼ばれる由縁となったとの事。
意宇の近くには出雲国庁跡も残っており、この地は出雲国の古代行政の重要な中心地であったようです。
 
また、宇摩志麻遅命がこの地を平定した時に、三つの瓶を三カ所に据えたと伝わるが、その一番目の瓶が据えられたのは島根県大田市に鎮座する物部神社摂社・一瓶社。
二番目の瓶は三瓶山麓の浮布池に浮かぶ島の邇幣姫(にべひめ)神社、三番目の瓶はこれも三瓶山麓の神社・三瓶大明神(現在の三瓶山神社)に祀られたことから、三つの瓶が奉斎された山として「三瓶山」と名付けられました。
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