『土佐日記』の作者としても知られる紀貫之に代表される、奈良県平群町に鎮座する古代一大豪族『紀氏』の氏神たる古社「平群坐紀氏神社(へぐりにますきしじんじゃ)」に参拝。
本来は長屋王墓へお参りしようと車を走らせていると、何故かナビが狂い、この地へ導かれた。
これもまた必然のご神縁なのだと考えている。
 
 
 
当社の宮司様より大変ご丁重にご案内を賜り、特別なお計らいにて御本殿内に入れて頂き、由緒についての多くをお教え頂いた。
当社は上庄に所在する式内大社で、「平群に鎮座する紀氏神の社」という意味を表し、別名『辻の宮』『椿の宮』とも呼ばれる。
元宮は現在鎮座地より2kmほど南の「椿井」地区に鎮座していたと推測。
紀氏神社周辺には、長屋王墓やその夫人の吉備内親王墓等が鎮められており、紀氏と同じく藤原氏の専横に対立し敗れた方々の御魂を鎮めるに相応しい霊気の強い地であったと古代から考えられていたのかもしれぬ。
 
 
 
 
 
 
 
境内の御神木や磐座からは、何とも言えぬ、強いご神氣を感じたからだ。
恐らくは、古代より、この地は特別な地であったのだろう。
 
現在の祭神は天照大神・天児屋根命・都久宿禰(平群木菟宿禰)・八幡大菩薩の四柱。
 
紀氏には神別の紀氏(紀直のち紀宿禰、紀伊国名草郡の紀伊国造氏族)と皇別の紀氏(紀臣のち紀朝臣、中央氏族)の2系統が存在するが、『延喜式』神名帳によると、当社を奉斎したのは後者の一族(皇別紀氏)である大豪族・紀船守が自身の祖神・都久宿禰の一柱を奉斎したのが創祀。
紀船守の生没年代が731年~792年であるから、神社鎮座はこの年代である。
 
創祀時の御祭神・都久宿禰とは、「平群木菟宿祢(へぐりのずくのすくね)」とも称す武内宿禰と紀国造の娘との間に産まれた子で、平群氏の祖。木菟とはミミズクのこと。
天照大神と天児屋根命はいずれも藤原不比等らによって天照大神を頂点とした祭祀体系が確立された後の合祀となる。
八幡大菩薩は「八幡大神や応神天皇=神」ではなく、「八幡大菩薩=仏」、則ち本地仏として祀られている。
 
 
 
 
 
一歩踏み込んだ境内はひんやりとした霊氣に包まれたような神々しい感覚であり、上庄・椣原・西向の氏神で西向きの本殿、拝殿に向かって三方にそれぞれの「宮座(座小屋)」が置かれている。
また、静謐な境内の至る所に神秘的な磐座が鎮まっており非常に印象的であった。
 
 
現在公園として整備されている神社の隣の敷地は、嘗て神宮寺があった場所であり、この整備工事で不思議な亀石が発見されて、今も境内に存続している。
 
紀氏と平群氏との関係は以下の通り。
全ては、武内宿禰から始まる。
孝元天皇皇子の比古布都押之信命(彦太忍信命)と、宇豆比古(紀国造)の妹の山下影日売との間に武内宿禰が生まれた。
武内宿禰は紀国造家の血を引いているということだ。
さて、武内宿禰には7男2女の子がいたとされ、蘇我氏や物部氏等そうそうたる名族の祖となる。
 
平群坐紀氏神社の創建者とされている「紀船守」は、紀氏の祖「木角宿禰」の末裔である。
7男の中で「木角宿禰」だけが、竹内宿禰と同じく、宇豆比古(紀国造)のルーツであり、紀国造の孫娘を母とする。
その為、紀氏という名称になったようだが、紀氏の支配する国だから紀ノ国なのか、紀ノ国の豪族だから紀氏と呼ばれるようになったのか、どちらが先かは定かではない。
 
紀氏の本拠は、平群郡の紀里で、現在は上庄と呼ぶ。
まさに現鎮座地は紀氏の本拠であったようだ。
 
ここから南に少し下った三里古墳は、紀伊や瀬戸内海さらには近畿北部に分布する古墳の特徴である石棚が設置されているが、この現象もまた大和紀氏と紀州紀氏のつながりを物語るものだと思う。
 
一方、平群坐紀氏神社の祭神は「都久宿禰(平群都久宿禰)」なる平群氏の祖である。
平群氏の本拠は、この平群の谷全体であったと推測されるが、どうやらその一部に紀氏の本拠地があったようだ。
平群氏は、平群木菟宿禰(都久宿禰)の子である「真鳥」の時代に隆盛を極めた。
しかし皇室をも凌ぐ勢力を持ち国政を牛耳り専横を極めたため、西暦498年、大友金村によって「真鳥」と「鮪(しび)」は誅殺された。
その後、平群の地は紀氏が勢力を広げ、天智天皇の御代あたりから中央政権へと進出。
更に天平宝字8年(764年)には、恵美押勝の乱の際、押勝を誅殺したとして勲功を治め、大納言まで昇進するに至っている。
 
平群町とは、大楠公の生母が子授けの霊夢をご覧になられた朝護孫子寺を擁する町であり、楠公研究会にてもご縁ある町なので、非常に感慨深いものがある参拝となった。
格別のご配慮を賜りました宮司様に心より厚く深謝申し上げます。