吉野の川上村で本年も斎行された御朝拝式。
 
 
 
 
後南朝皇胤で、赤松家残党らによって弑殺された自天王・忠義王を偲び、本年で563年もの間、欠かす事なく毎年2月5日に行われて続けている式典である。
 
この式典は、享徳元(1452)年正月、新暦2月5日、三之公の河原に置かれた後南朝宮中に於いて即位された天皇(自天王)に拝賀する朝賀拝礼式を斎行した事蹟に由来する。
 
江戸時代後期に書かれたとされる「川上朝拝実記」という文書によると、この朝拝式は享徳3(1454)年2月5日の尊秀王(のちの自天王)の即位式の折、高御座でみせた自天王の喜ばしき笑顔が忘れられず、この儀式を再現すれば、亡き自天王の御霊も喜ぶだろう考えた郷士らが相談の上、始めたという。
 

 
 
式では(十六の菊の御紋章のついた)裃を着用し、榊の葉を咥えた筋目衆たちが自天王神社に御幣を奉納し、収蔵庫前に整列、自天王が着用したとされる甲冑・刀を御神体とあがめ、一人ずつ拝賀するものである。
 
朝拝式は自天王が弑殺された際に仇を討った郷士の子孫が執り行うしきたりで「筋目」と呼ばれる家系により継承されてきた。
 
御朝拝式は寛永2(1625)年までは御座磧と呼ばれる吉野川の川原で執り行われていたと伝えられているが、以後は自天王の遺品として伝えられた鎧や太刀などが村内三ヶ所に保存され、それぞれの地域で御朝拝式を営んできたという。
その後、昭和56年に高原の福源寺と金剛寺の二ヶ所に統合され、同時に御朝拝式が営まれていたが、平成19年に550年祭を迎えたのを機に、自天王の遺品はすべて金剛寺の収蔵庫に納め「御朝拝式」も合同で行われることになった。
 
 
 
この動画は、令和二年の御朝拝式の模様と併せて、平成29年御朝拝式に、筋目総代様の格別なるご配慮にて、自天王の遺品を間近に拝見させていただいた折の貴重な記録であり、後世に伝えねばならぬ重儀なる国軸の一つである。
※動画及び写真は特別な許可をいただき撮影、公開させていただいております。