広島市街の最たる中心部に建つ頼山陽史跡資料館。
ここにも、幼い頃から親に連れられ、頼山陽の遺した事蹟について徹底的に教え込まれてきました。
なので、私にとって、やはり特別な地。



ここは原爆投下時、ほぼ直下であったにもかかわらず、隣の日銀の陰になったため、奇跡的に倒壊を免れ、被爆後も使用され続けました(収蔵品はほぼ壊滅)。
その後の老朽化によって、門塀と門碑以外は新たに建て替えられています。


原爆で幹の大半を失った後、再び芽吹いた庭のクロガネモチを描いたふすま絵が無くなっていたのが、少し残念。

頼山陽の父で儒学者の頼春水(しゅんすい)は、私塾「青山社」を開いていましたが、広島藩が学問所(現在の修道中学・高校)を創設する際に藩儒として迎えられ、頼山陽も父に伴い、ここ「頼山陽史跡資料館」施設内の屋敷に住みました。
その後、に江戸で学問を学ぶために一年間遊学したのですが、江戸で多くの知識を得た山陽は広島藩を脱藩するも失敗。
すぐに連れ戻され、屋敷内の離れの一室に幽閉の身となりました。
この幽閉されていた離れが、現在の資料館庭園内にある頼山陽居室。
後に、「大日本史」と同じく幕末の志士達のバイブルとなり、維新の大きな波を起こす原動力となった「日本外史」は、この幽閉されていた約5年間にその草稿が著されています。



 
幽閉が解かれた後、再び脱藩。
京都で自ら塾を開きつつ、遂に頼山陽47歳の砌、「日本外史」を老中の松平定信に献上しました。
ここに「日本外史」、維新に向けての芽が誕生し、その生みの舞台が、まさにこの地。

この著書によって、頼山陽は、幕府による治国ではなく、天皇の御聖徳によって国家を治める我が国の正しい国體を明示しました。
殊に、吉野朝、中でも、楠木一族に対する敬慕の念は非常に強く、しばしば、学者仲間と南北朝正閏論等の激論を交えることもあったようです。

山陽の死後、安政の大獄の嵐が吹き荒れました。
そして、山陽の子・頼三樹三郎も処刑されてしまいましたが、かようなことで山陽が遺した強き赤き志を途絶えさせる事はできず、やがては我が国を神国としての原点へ回帰させる王政復古という奇跡を起こしていく事に繋がっていくのでした。

その奇跡の力はずっと残り続け、あの何千度もの熱線と猛烈な爆風にも耐え、今も、日本人に真の国體の大切さを語り続けています。