奈良県桜井市・三輪山のすぐ麓、山の辺の道の高台に残る磯城瑞神籬宮趾。

ここは、第十代崇神天皇の皇居趾です。

(※所説在り。下方の天理教会が建つ辺りとの説も)

 

 

記紀の伝えるところによると、崇神天皇の御代に、民が死に絶えてしまうほどの深刻な疫病が発生。

これを受け、崇神天皇が孝霊天皇皇女・倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめ)を祭主として卜占をし原因を問わんとしたところ、突如として百襲媛に「倭國域内所居神」と名乗る神が神懸かりし、名を大物主神を告げた事により、この災いは大物主大神の神障によるものであり、崇神天皇は教えのまにまに祭祀したが、効験が得られませんでした。

その後、崇神天皇の夢枕に大物主神が現れ、大物主大神の神裔である「大田田根子」に吾を令祭(まつ)りさせればたちどころに天下太平となるとの託宣が下されました。

早速、天皇は、大田田根子を探し出して、三輪山にて大物主大神をお祀りさせ、かくして、疫病は無事治まったのでした。

 

また、崇神天皇は、大和一国のみならず、東海・北陸・西国・丹波等四方の各地に将を派遣し、各地の豪族らを従え平定します。

更に、天照大神からの託宣により、皇女・豊鋤入姫命に、皇居外での天照大神奉斎を命じ、現在の神宮祭祀の基を築かれた天皇でもあられ、これらの多くの御聖蹟から、崇神天皇は神武天皇と同じく「はつくにしらすすめらみこと」と並び賞されました。

 

 

 

 現在、磯城瑞籬宮は、志貴御県坐神社(しきのあがたにますじんじゃ)として、お祀りされています。

「磯城」という地名が現在も残っていますが、これは「石城」が語源であり、石で堅く固めた所という意味。

当時、都を建てるのに、盛り土をして堅めたのでしょう。

そして、「はつくにしらすすめらみこと」である崇神天皇の皇居のあった「磯城」の名が、後に、日本を表す「敷島」に繋がっていきます。

 

 

 また、この地は古代からの交通の要衝であったので、都としても非常に都合が良かったと考えられます。

 

 

 志貴御県神社拝殿。

 

 

 

 御本殿。

祭神は、大己貴神、所謂、大国主命。

「県(あがた)」とは、古代朝廷の直轄地を指しますが、特に、大和国の高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布の6県は朝廷とのつながりが深く、「六御県(むつのみあがた)」と総称されて各御県には御県神社が鎮座しています。

そして、ここもそのうちの一社に当たりますが、古代に現在の奈良県南部付近一帯を治めていた首長・磯城県主は、神武東征で功のあった弟磯城の末裔が務めていました。

また、記紀では磯城県主一族の娘らが、第2代綏靖天皇から第6代孝安天皇までの各天皇の皇妃になったと記録されており、磯城県主が非常に大きな勢力を誇った古代豪族であった事が窺われます。


神武天皇と同じく、歴代天皇が国津神を祀る一族の女性を后とした事からも、神津神を皇祖神とする天皇が、国津神の血統と血縁を結ぶ事により、神々の融和を国家の在り方の理想の象徴とし、安寧なる国家の実現を目指されたのだと感じました。

 


 

 

 境内右には、古代祭祀の趾である磐座「磯城神籬」が遺っています。

磐座は4つの石がまっすぐに並べられています。

崇神天皇の御代、「磯城の神籬を立つ」との記録もあるので、元々はここ皇居内に神籬を建て、天照大神をお祀りしていたと思われますが、上述の通り、後に、天照大神はこの地から笠縫邑へと遷座される事となります。

古代のままに残された祭祀場にて間近にさせていただけるのは誠に貴重な事。

非常に尊い御聖域ですので、磐座の内部のお写真は控えさせていただきます。

 

 

 境内社。

恐らくは、式内社にある末社・春日神社・琴平神社・厳島神社でしょうか。

 

 

 

境内の万葉歌碑。

「磯城島の 日本(やまと)の国に 人二人 ありとし思はば 何か嘆かむ」

(この大和の国に、愛する人が二人も居るならば、どうしてこんなにも嘆く事がありましょうか。愛する人はたった一人しか居ないから、あれこれと気を遣うものなのです。)

人を愛する想いは、今も昔も変わりませんね。

 

 

 

 

ここからは、眼下に、神武天皇が皇祖神・天照大神を降臨し大嘗祭を斎行した鳥見山が眺められます。
これらの山々の景色を、崇神天皇も日々、眺められ、天照大神と神武天皇に遥拝された事でしょう。
 
悠か古代の皇居趾には、今では訪れる人もまばらで、この地の存在を知る人も少なくなりました。
ぜひ、この機会に、多くの皆様に知っていただけましたらこれに勝る幸せはございません。

 

 

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