鳥見山において、皇祖神・天照大御神を降臨させ戦勝祈願を行った磐余彦尊(いわれひこ・後の神武天皇)は、紀元前663年(即位前3年)124日、遂に、宿敵である長髄彦(ながすねひこ)との最終決戦に挑みます。

しかし、やはり長髄彦の軍は強く、苦戦を強いられてました。

そんな最中、急に空が暗くなって雹が降り出したかと思うと、突如、金色に光り輝く鵄が飛来し、磐余彦尊の弓先に止まったのです。

その鵄は雷光の如く光輝き、余りの光の眩しさに、長髄彦の兵達は戦意喪失し、士気が激減してしまい、これにより戦局が一転、遂に長髄彦を討ち取るに至ったのでした。

 

 

 

 

金の鵄が飛来した聖地には、今も顕彰碑が遺り、遥か遠い古代の聖蹟を今に伝えています。

この辺りは、「登美ヶ丘」「富雄」等、「鵄」から派生したと思われる地名が今も残っており、古代から連綿と続く経糸を感じさせられます。


 

 

神武天皇聖蹟鵄邑顕彰碑は、奈良県生駒市上町の奈良交通バス停「出垣内(でかいと)」のすぐ背後のこんもりとした丘を少し分け入った所にひっそりと聳えています。

今では現地の方ですら、この聖蹟と顕彰碑を知る方は少なく、訪れる人も少ないようです。

しかし、我が国の建国において、非常に重要な聖地であり、ぜひともこの聖蹟を多くの方々に知っていただきたいと願い、今般、訪れました。


 

 

 

 

興味深いのは、長髄彦の和名が登美能那賀須泥毘古(とみのながそねびこ)と称され、その妹で、饒速日命に嫁いだ三炊屋媛(みかしやひめ)の和名が登美夜毘売(とみやひめ)と称された事。

もしかすると、この辺りは神武東征以前から「とびむら」「とみむら」と称し、桜井一帯を治めた大物主神の末裔豪族を脅かす程に力を持った有力豪族として長髄彦らの一族が、この辺りを領有していたのかもしれません。

そして、彼らの崇敬の対象が「鵄」であったのかも。

そして、自らが尊崇してきた鵄、しかも、神憑りしたかのように金色に輝く鵄が、なんと、磐余彦尊の軍につき、これを先導した。

それを見た長髄彦らは、当然ながら、これを大いに畏れ、一気に戦意喪失した事が容易に想像されます。


 



かくして、金鵄の導きにより、遂に、神武天皇は天業恢弘を果たされるのでした。

この強き言霊が、私は大好きです。

そして、現代にもまた、金鵄の飛来せんことを願ってやみません。

 

 

 

ペタしてねフォローしてね…