令和改元の今年。
御代替りの年のみに斎行される大嘗祭は、本年10月に斎行されます。
日本民族にとって、大きく大切な節目である年だからこそ、ここ、鳥見山霊畤にお参りせねばならぬと思い立ち、参拝に上がりました。
今から2679年前、橿原神宮で神武天皇御即位後の初めての大嘗祭が、ここ鳥見山霊畤で斎行されたのです。
ここ鳥見山霊畤は、日本の国體の基ともいうべき聖域中の聖地。
 
 
 
何故、この地が霊畤とされたのか、その経緯は次なる事から始まります。
後に初代天皇となられる磐余彦尊(後の神武天皇)が、日向高千穂から葦原中国を目指した「神武東征」の最終難関において、ラスボス的存在として、また、奈良盆地一帯の在地有力豪族として、磐余彦尊の前に立ちはだかったのが、有名な長髄彦。
生駒山の東麓・孔舎衛坂にて、長髄彦との激戦となります。
この戦いで、磐余彦尊の兄・彦五瀬命は流矢にあたり、戦死。
この危機の原因について、磐余彦尊は、日の神の子孫の自分が日に向かって戦うことは天の意思に逆らうことだと悟り、和歌山を迂回し、日を背に向けて進軍する経路をとります。
この時の険しい山道の先導役を務めたのが、八咫烏。その案内の甲斐があり、磐余彦尊はようやく奈良県の菟田に入り、そこから現在のこの地・鳥見山に天照大御神を召喚して祀り、戦勝祈願を行いました。

 

 

 

鳥見山は、三輪山のすぐ南側にある山。
三輪山には、神武天皇が皇后として迎えた比売多多良伊須気余理比売の父で、神武天皇がこの地に辿り着くより以前からここを治めていた大物主神が神として鎮まっており、恐らくは、地元で聖なる山とされてきた三輪山に敬意を払い、その隣に天照大御神を降臨し奉ったと考えられます。

 
鳥見山の麓に等禰神社が鎮座します。
ここの鳥居は内宮から下賜されたものである事からも、等禰神社の格式が偲ばれます。
明治までは、能登宮と呼ばれていたそうです。
その創祀は不詳とされる程に古く、初代天皇・神武天皇が皇祖神を祀った場所・霊畤の鳥見山に鎮座していたものを、1112年の山崩れにより社殿が谷に埋没、間もなく村で悪疫が流行した為に、社殿を現在地に遷座しました。
 
 

 

 

 

今も尚、鳥見山上に、旧社殿があった霊畤が残されています。
橿原神宮で神武天皇御即位後、初めての大嘗祭が、この鳥見山霊畤で斎行されたのです。

 

 

 

 
神社境内には、上社「上津尾社」と下社「下津尾社」が分かれて鎮座しています。

 

 

 

上社「上津尾社」の祭神は大日霊貴命、所謂、天照大御神。
神武天皇が戦勝祈願の為に、天照大御神を降臨させお祀りした事に始まります。
拝殿には、神武天皇を勝利へ導いた「金鵄」が掲げられていました。
 
 
 

下社「下津尾社」には、品陀和気命(ほむだわけのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)・八幡大神・春日大神が祀られています。

 

 

 

 

等禰神社境内に、「神武天皇聖蹟鳥見山中顕彰碑」が建てられています。

 

 

 

 
 
摂社として、猿田彦の祠。

 

 

 

桃神の意富加牟豆美命(おほかむづみのみこと)も祀られています。
 
 
 
等禰神社境内には、桜井市護国神社も祀られており、護国の為に散華された多くの英霊の御霊が天照大御神のお傍近くで眠っておられます。
間もなく8月15日終戦の日。
お近くの方は、祖国の為に散華された英霊の御霊に誠を捧げさせていただくために、ご参拝されると宜しいかと存じます。
 

 

 

 

 
この地に天照大御神を降臨させて戦勝祈願し、満を持して、再び、長髄彦との最後の戦いに挑んでいくことになります。
 
為政者が進んで国家冒涜を煽動する時代。
こんな時代だからこそ、国體護持を志す皆様におかれましては、ぜひ、1度、鳥見山の聖地に足を運び、神国の創祀を目の当たりにされ、今一度、勤皇の志を篤くしていただきたいものと願ってやみません。

 

 

 

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