読んで理解できる人は感性の高い人だと思う。

 

 

 

「日本の代表的文学作品を一つ挙げよ」と言われたら何になるか。まず、夏目漱石の『坊ちゃん』か。その次はおそらく川端康成の『伊豆の踊子』になると思う。『伊豆の踊子』という作品は、一体何を描いたものなのか。はっきり書こう。あれは少女売春の話である。こういうことを言うと、きっと大方の人に嫌われる。しかし、私は書く。本当のことを書いて後世に伝えてゆく。本当のことをタブー(禁忌)にして隠していったら、社会が脆弱になって、しまいには、人々を結びつける紐帯が解けてしまう。

あの小説の背景は、伊豆大島から熱海に旅芸人の一座が連絡船で渡ってくる。そこから伊豆半島の山の中を、天城山中までをずっと下っていく。次々と修繕寺温泉などの温泉地から温泉地へ二週間ぐらいかけて旅した。その一座は、若い十三、四歳の踊子たち何人かを引き連れていただろう。三味線を弾いたり、太鼓をたたいたりしながら踊子の少女たちにヌードダンスをさせたのである。もっぱら金持ちたちが投宿している温泉宿から口がかかるのを待っただろう。人類の歴史は、どこの国でもどんな時代にもこれと同じことをやっている。知らないふりをして上品ぶるのはやめたほうがよい。男というのはそういう生物なのである。男たちの性欲と、女たちの物欲(買い物欲求)は、人間という生物の本性だから止むことがない。私はこのようにはっきりと書いておく。旅芸人たちは街道を下がっていく。そのあとを、当時の旧制一高生だった川端康成が、行きつ遅れつしながら、次の日も、「また会いましたね」みたいな、美しい人間関係の触れ合いの話にした。こうやって天城街道を一緒に歩いていった、という話である。湯煙のなかに、あの女の子の裸の姿がほの見えたとか書く。それが文学だ。

仄暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出して来たかと思うと、脱衣場の突鼻に川岸へ飛び出しそうな格好で立ち、両手一ぱいにして何か叫んでいる。手拭いもない真裸だ。それが踊子だった。 
(川端康成『伊豆の踊子』新潮文庫、1950年、P20)


これがこの作品の見せ場である。それが文学というもののスゴさである。そして本当は、少女売春の話であり、踊子たちは、そこらの宿屋に呼ばれて、男たちの相手をした。主人公の一高生は、そういう旅芸人たちの後を、くっつくようにして歩いた。当時の読者は、皆、真実を知っているのだ。



やがて、皆が追いかけっこしているのか、踊りまわっているのか、乱れた足音が暫く続いた。そして、ぴたと静まり返ってしまった。私は眼を光らせた。この静けさが何であるかを闇を通して見ようとした。踊子の今夜が汚れるのであろうかと悩ましかった。(P19) 

と、川端康成ははっきりと書いている。そして、ひとり悶々としていたと書いている。だから、明らかに少女売春の話である。しかし、そのようには書かないのを文学と言う。 
 

日本のタブー/副島隆彦+SNSI副島国家戦略研究所
 
 
 
(メモ)
 
川端康成の伊豆の踊子は少女売春の物語であることに気づく人は、ごく普通に、カフカの「変身」の主人公の虫は、事故で身体障害者になったこの家の息子であることにもすぐに気づくのだろう。
 
そういう人は、↓のカフカの変身の虫の絵を挿入したイーロンマスクのメッセージにもすぐに気づき、少なくとも複数回にわたってあれをするなんてことはしなかっただろう。
 

「あれをやりまくると、カフカの主人公=虫(障害者)のようになっちゃうぞ!気を付けろよ!」というメッセージを世界中の人々にイーロンマスクは送ったということが、先日のメモ。↓

 

深いメッセージはそこら中で発せられている。それを受け止める感性は重要。これがないと自分と家族の健康は守れない。

 

 

 

 

 

マインドフルネス(: mindfulness)とは、現在において起こっている経験に注意を向ける心理的な過程である 。 瞑想、およびその他の訓練を通じて発達させることができるとされる 。

 

Have you 過去分詞 ・・・? ・・・したことありますか?中学生でも知っている。

でも、mindfulnessという単語は中学生では難しいかな。英語をちゃんと勉強しなかったワシがいうのも変だが。

 

「マインドフルネスをやったことありますか?」今起きていることに注意を向けないとカフカの虫みたいに不健康な状態になっちまうぞ!ということなんだろうなと、ワシは理解した。