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ある方が「巫病」(ふびょう)について

書いてくださっていたので、

私も個人的な体験を書いてみたいと思います。

 

「巫病」(ふびょう)について、

調べるとこのような解説が出てきます。

 

〜巫病(ふびょう)とは、

巫(シャーマン)が

シャーマンになる過程(成巫過程)

において罹患する心身の異常状態をいう。

いわゆる召命型のシャマニズムにおいて、

巫病は成巫過程の重要なステップと

位置づけられている。

 

これは世界的にあり、

症状はどの地域でも似通っている。

シャマニズムの信仰において、

巫病は神がシャーマンになることを

要請しているのだと捉える。

 

これは本人の意志で

拒絶することが困難であり、

拒んだために異常行動により

死亡するという例も散見される。

 

そのため、巫病になった者は、

たいていの場合が

その社会の先輩のシャーマンから、

神の要請に従うことをアドバイスされる。

 

巫病は、夢で与えられる

神の指示の通りにすることや、

参拝や社会奉仕などを

行っていくうちに

解消されていくとされ、

巫病を克服することによって、

シャーマンとして完成すると

信じられている。

 

巫病を経てシャーマンとなった者は、

神を自分の身に憑依させることができ、

神の代弁者となるとされるが、

シャーマンとしての仕事を辞めると、

再び巫病を発症すると考えられている。

(引用終わり)〜

 

要は、巫病というのは、

使命に導かれる過程において、

罹患する心身の異常です。

 

私は現代では、肉体だけではなく、

経済的・人間関係も含めての

事象だと思います。

 

天からの召喚なので、

選択の余地がないものだと言われています。

 

ここからは、個人的な体験で、

マニアックな話題なので、

興味のない方はスルーしてくださいね!

 

私の場合は、それが数年に1度、

定期的にやってきます。

理由もなく唐突に、

 

体・心・頭のどれかが一定時期、

全く動かなくなり、

健康・経済・人間関係の複数の試練が

いっぺんにやってきて、

八方塞がりにさせられます。

 

本人にとっては

限界を超えるくらいの

苦しい時期なのですが、

半ば強制的な修養なので、

避けようもなく、

魂の大きな視点で見ると、

予定調和に過ぎないのです。

 

その時の感覚としては、

限りなく限界や死を

意識するところまで

追い込まれていきます。

 

その間にあらゆる

罪悪感や恥や怒りや怖れを経験し、

それが極まることで、

削ぎ落とさせられます。

 

執着や我欲や未練や俗世と、

切り離されるような感覚を味わいます。

苦しいです。余裕がありません。

そこから出る方法は、

人に教えてもらう類のものではないので、

もがきながら、考えながら、

じっと耐つつ、

自分で抜け出すしかありません。

 

ある一定期間を耐え、

なんらかの覚悟や、腹が定まると、

自然と終焉に向かいます。

 

それでも一定期間はそれを経験し、

味わい、耐えなければなりません。

早く「解」を見つけさえすれば、

早く終わる、というわけでもありません。

「解」を見つけるまでの「道程」

こそが重要だからです。

 

この試練から、忍耐力、柔軟性、

優しさ、強さを身に着け、

自己が拡大します。

 

何よりも、限りなく

追い込まれると、

死ぬ前の気持ちがわかるというか

人生で本当に

大切なものなんて

ほんの少ししかない

ということに気づくのです。

 

また、ただ受け身で、

この苦しみが終わるのを

待っているだけでもありません。

 

問いが何かさえ分からぬまま、

「何に気づけと言っているのか」を

あらゆる視点から

考察する力を鍛えていきます。

思考し、その思考を捨て、

また思考することを繰り返します。

 

「真理」というのは常に、

一見相反するように見える

両極的な考え方や実践の

「中庸」に漂っています。

 

聖と俗。清と濁。剛と柔。

図太さと繊細さ。

 

これらの両極を知り、

その上で、いずれかに

偏った偏見や、

どちらかが正しくて

どちらかが間違っている

という正誤の考え方を手放して、

 

「どちらでもいい」

「しなければならないことは何もない」

「したければやればいい」

「全てが体験である」

 

といった目醒めへと

導かれていきます。

 

この、自分が無意識に

絶対に正しいと執着している

価値観を削ぎ落とすことは、

誰にとっても、

生爪を剥がされるような

魂の痛みや苦しみを伴います。

 

現実を生きるということは、

変えられない「宿命」と、

自ら創造する「運命」を

つなぎ続けることです。

 

人は、行動し、祈り、

宿命の限界に挑戦し、

折り合いを見つけながら、

運命を切り開いていきます。

 

この真理を深く理解し、

より人の役に立つことが

できるように

成長させられます。

 

宿命を受け入れるべきか?

我欲を収め、足るを知り、

降伏すべきなのか?

宿命に従うしかないのか?

     VS

自ら運命を切り拓き

創造すべきなのか?

 

二つの極の揺らぎの中で、

迷い、惑い、バランスを

見出す能力や感覚を修養します。

 

この期間はまた、

孤独感や無力感が募り、

自分が風に揺れる

空前の灯火のような気分を味わいます。

 

その命の灯火が消えることさえも、

宿命や自然の摂理として

受け入れることのできる精神力、

つまり必要であれば、

この世への

あらゆる執着を捨てることが

できる精神力と、

 

たとえ空前の灯火のような

消えゆく炎であっても、

決して諦めずに、

命を燃やし、生命力を

奮い立たせることができる

不屈の精神力の、

 

両方を鍛えられます。

 

決して諦めない不屈の精神力」

                 VS

「必要ならいつでも宿命を受け入れ、

 全てを手放すことができる精神力」

 

 

         「執着」

             VS

        「手放す」

 

対極にある二つを

同時に保有し、

内在させられること。

これが真理の修養でもあります。

 

人間はたったひとりで、

裸ひとつで(魂ひとつで)

あの世に還って行くしかないと

思い知ると同時に、

すべての人と物事との

美しいつながりに

気づく期間でもあります。

 

この苦しいトンネルを抜けると、

自己が拡張します。

心身はどっしりと地上に腰を下ろし、

腹を据え、心と頭は澄み切って、

一段、自己が拡大したことがわかります。

 

このように

多角的・多次元的な視点から

物事を見る視点を養い、

意識が拡大して行くことが、

いわゆる覚醒、

目覚めのプロセスですが、

 

それは、

特別な人間になることや、

特別意識を持つこと

などではありません。

むしろその逆です。

 

普段は、普通に暮らす

大勢の人のように、

未熟で不完全な人間として、

笑ったり泣いたり

迷ったりしながら、

懸命に生きて、

この世の豊かな彩りを

体験しながらも、

 

必要な時にはいつでも、

天の道具として、

自分の個人的な信念や価値観

(〜べき・ねば・ならない)を

切り離すことができ、

自分を差し出すことができる

ということ。

 

そのスイッチの切り替えが

上手にできるようになって行く

ためのことであると思われます。

 

私の場合は、特殊な能力が

一族に遺伝して行くものとして

継承されてきましたが、

出方は様々ですから、

巫病になれば、戸惑い、

困難であることに

変わりはありません。

 

そもそも能力の特徴や大きさも

人によって違います。

もともとの才能があっても、

試練や巫病に負けて

人生を失う人もあれば、

能力によって

財や権力を争う場合もあります。

 

能力を生かして

人生を幸せに生きることができる人は、

生命力が強い傾向があり、

生命力とはつまり、

食欲をはじめとして

あらゆることを

楽しむことに対する貪欲さです。

 

巫病は、

アニメや漫画で言えば、

主人公を覚醒させ、

強くするための設定です。

 

最中は苦しいのですが、

振り返ってみれば、

人生の宝石のような

貴重な体験となります。

 

この時期さえも、

楽しんでいけたらと思います。

 

LOVE

 

NICO