階段から滑り落ちた。
その時下着の上からではあったが、わきの下を鉄板の断面に激突させてしまった。
痛みをこらえつつシャツを脱いでみると、10センチ弱の裂傷を負ってしまったことが分かった。ぱっくりとあいた傷口、赤い皮下脂肪も見える。正直絶望した。
すぐ救急車を呼んで病院に行く選択しがあったが、痛み、出血は大変な状況ではなく、とりあえずの手当てをして翌日まで様子を見ることにした。
痛みはあったが激痛ではなく眠れないほどではなかった。出血も大したことはない。
筋肉も損傷していないようだ。翌日そのまま仕事に行った。昼休みに脱脂綿、消毒液、包帯、ガーゼ、そしてオロナイン軟膏などを購入した。
夜になって傷口の消毒をして、ガーゼなど新しいもので傷口を保護した。オロナインは傷とガーゼなどが固着しないように使用する。この軟膏は傷を刺激しないので助かる。
風呂にはひと月以上入らず、時々タオルを濡らして体を拭いた。冬で寒い時期だったので比較的しのぎ易い。
ひと月の間、毎日アルコール消毒と保護材の交換を欠かさなかった。消毒時は結構決意がいる。戦闘映画の、同じような場面を思い浮かべて作業することも多かった。
裂けたら縫合と短絡的に決めつけていたが、やがて傷は自然と修復されていった。
そういえば、自然界に縫合などというものはない。
医療が必要だ、不要だ、ということを言うのではなく、寿命の期間は様々な体験をし、それに対して選択的な反応を経験している。
霊界という永遠の住処があるというのに、何ゆえに人間として一定期間過ごすのか?という疑問を抱き続けてきたが、地上生活は霊にとって集中的に学ぶ合宿生活という側面も持ち合わせているのだろうと納得している。
経験の度合いというと、宇宙そのものだといえよう。エベレストの頂上もあれば数千メートルの深さの深海もある。相当厳しい経験の可能性もあるということだ。
ビクビク生きていたのは、人が経験するであろう事象の度合いを低く見積もっていたためだ。
さて、私の本体は魂である。
魂は本質の一部であって、現象世界に或る時は霊に乗って生活する。本質から分離すると霊体に乗るのである。
ヨガは宇宙本体と一体となることを目的としていると聞く。
しかし、本質と一体となって自我が消滅した状態はもはや現象世界ではない。魂として本質から分離することで現象世界が現れるのだ。
話を元に戻そう。
前にも書いたが帯状疱疹も自然治癒した。
否、人生上の数々の超えてきた出来事の一つであるという表現がしっくりとくる。
本質という一つのものが分かれて現象世界がある。
人は人間として寿命という一定期間を過ごし、霊界で永遠に暮らす。
全てはつながっている。だから野放図に物事は生じない。
恐れることはないのだ。
むしろ、恐怖心に支配されて好ましからざる出来事を、図らずも自ら創造して苦しみもがくというようなことは避けたいものだ。魂には創造力がある。