心は周りの世界に対して反応している。よって心は完全の中の多様性の
世界に存在していると言える。
この心の活動によって形成される自己は、時間の経過によって明瞭化す
るとは言えない。年を取るに従いだんだんと明らかにはなっていかない
ということです。
このことは正規分布夢想で定義したところの、『存在は正規分布してい
る』という前提には当て嵌らないため、自己の本体は別に存在すること
を示唆しているのではないかと述べてきた。
自己意識は明瞭なので自己の本体は既に完成体として存在し、その本体
が自分という存在を創造しているという構造を正規分布夢想で展開して
きたのである。
完全の中の多様性の世界で使われるものが『心』である。
心は最初に述べたように自分が感知する世界に対して反応している。そ
して時には思い、行動し、経験をし、そのことによって時に学び自己の
糧にする。
この心の遥か後方から『是』とか『非』とか、何となくそんな気がする
という感覚が伝わってくることがあるが、これは自分を創造している自
己本体から来ているものと考えられる。人を正しく導くと言われる良心
と同じものなのかもしれない。
ならば良心とは、宇宙本体に通じる各個性本体に属するということにな
って、宇宙本体から直接来ているものでは無いということになる。
この世界は何があっても完全である。極小の1点から始まった宇宙(ビッ
グバン)は、分かれた全てを足し合わせると元の1点に戻るはず、とすれ
ば世界全体の中は常に完全であることになる。
ところで我々は自分の意に沿わない出来事は不完全と考える。自然では
生じない人社会特有のものだが、これは実に厄介である。
全てが完全であるので、どの様に捉えても間違いとはならないどころか
完全であるからだ(どんなものも有って然るべき)。
どんなものも有って然るべきと言うんじゃ、ことと次第では大変な人社
会になってしまう、と危惧されるかもしれないがそうはならない。
確率は試行数が多いほどはっきりと明確化してくる。1/2の確率は1/2に
収斂していく。このことからこの世界は偏っていないということが分か
る。完全が前提の社会ならば偏りは生じないが、不完全を前提として築
かれた社会は偏っているので、軌道修正と言う過程が必然的に現れる。
森羅万象は平等であるということは確率によって明らかにされていて、
それはおそらく一つが平等に分かれているためそうなるのであり、偏り
は構造上存在出来ない。コイン投げを繰り返すと片側だけが偏って現れ
る時もあるが結局は辻褄が合う。
これと同様に不完全という捉え方は歪んで偏った捉え方であるので、全
体の中では何れ軌道修正が生じてバランスがとれるようになる。
なるほど......、やってみるか。