私は内から湧き上がる思いの他に、外から来るものに対して選択的体験をしている。外からは波が寄せるようにこちらに接近してくる。私は接近したものを選択的に体験する。この波は私にどの程度まで近づくのだろうか?衣服の上までだろうか、皮膚表面までだろうか?
例えば喉が痛くなる、鼻水が出る、頭痛がする、節々が痛い、だるいなどの肉体的変化は風邪の症状であるが、体の内に体験可能な状態で現れる。この段階は私の選択前なので掴むも無視するもどちらも可能だ。無視すればやがて引いて行く。
しかし肉体的変化はその実像を知らなければ私に恐怖心を抱かさせることになるだろう。そして恐怖心はそれらを凝視させるに違いない。こうして図らずも私はその波を掴む(選択する)ことになり、この時点から波に対する選択的体験が始まるのである。
体験はフィルムを入れ替えるようなものだと言う人もいるが、なかなか今いる地点からいきなりまるでかけ離れたところには行けない。今いるところから少しずつ舵を切っていくということが基本になると思う。
選択的体験 = 創造
私の行動はすべて創造である。
1.始まりと終わりはセット
2.波は感覚を刺激する
3.人の創造力の影響
4.選択的体験というシステム
5.個は侵害されない
さて、私は確率について平等の法則という表現をしたことがあるが、上記5はそのことを言っている。私という個は何モノからも侵害されないし、私もまた他を侵害することは許されないというか出来ない。いかなるものが寄ろうとも私(個)を侵害することは出来ない。
寄せる波を掴んだり退けたりということを考えるより、心を独り立ちさせることに取り組む方が良い。そうすればいちいちあれこれ思索を巡らす必要もなくなってくる。上の5つの事柄を知ることは、自然界を理解しどのように関わったらよいのかということについて、安堵の中に知恵を付ける手助けをしてくれるだろう。そして身に付いた知恵や知識は心の自由度を高め、自然界の奥深い姿に接する機会を与えてくれることになるだろう。
私は時折霊意識で生きることをしてみた。と言っても、ただ自分は霊だとイメージして過ごすだけの事だ。来年も同様にやってみようと思う。霊は食べる必要も眠る必要もないという。勿論そういうことも出来るらしい。だからそれらの優先度を下げて霊の性質を真似て過ごしてみる。巷の様々な教えは、突き詰めるとそういうことを言っているんじゃないか?私は霊を被造世界の主人公と考えているので生きても死んでも同じならこの考えは好都合である。
今年私は時折自然と同期するということも意識してみた。気のせいかタイミングが合うような気がしている。歯車の一つになって動くので図らずもタイミングが合ってしまう、そんなイメージか。これからも少しずつやってみよう。
感謝の気持ちは道を誤らない最高の導き手だと思う。常に感謝の視点に立てるなら右も左もわからない時でも間違いはない。