東野圭吾作品の2作目を読みました。
タイトルを見たとき、ショックを受けました。
「むかし僕が死んだ家」です。
これから受ける印象は今現在も生きている僕がいるというのか?ということ。
タイトルを弄(いじ)って逆にしたら。
「僕がむかし死んだ家」
これだと随分印象が変わります。
多分、彼はこの世にいない?!。
小説には、
題名に、作者のメッセージが籠もっているし、
それに気づいて読み始めたいと思っているのです。
題名のイメージは、
未だに癒えることがない、常にとげがある僕。
心の闇の相当深いところに違いない。
文章を読み進めていくと
伏線も半端じゃないんです。
情景描写の一つ一つが彼らの闇を探す旅へ。
この旅の同伴者沙也加と僕の二人。
僕の家は壊される、捨てられた家。
物語の中心は彼女の家。
学生時代の元の恋人が幼いころ家族と過ごした生家を見つけることに。
皆さんはどうですか!?
自分が育った家にたいする思い入れ、特に幼いころって、強いですよね。
その記憶を抹殺したものと、されたもの。
その二人の物語です。
ラストに進むにつれ、読者の私の背中に旋律が走りました。
看てはイケナイ、
あってはイケナイ、
ある想像が生まれるからです。
ですが、
まさか、
この後、
しっかり裏切られました。
とてつもない終末が待っています。
この発想は古代エジプトからあったけれど、
まさかこういった形に展開していくとは。
伏線は単語を繰り返し印象づけ、覚え易い発音。
何回も繰り返される中で、読者の想像が膨らみます。
情景描写が伏線になっている素晴らしい文学作品です。
ではいったい、
この物語に数々の伏線を張り巡らして、何を書きたかったのでしょうかか。
それは、生家の意味だと思います。
人が生まれて醜態もさらして成長した家。
自分は自分であって、一人で生きていくと決心させるのが家。
家とは自分の忌まわしい過去を引きずる記憶の宝庫でもあるのだろうかと。
家とは生家であり、最後に還るところ。
故郷を後に都会へ出てきたくなるように、仕向けられた家も。
そして、
新たな自分への歴史を刻む礎(いしずえ)となるためにも
あるというのか。
そこは、
過去の自分自身を葬った家は
いま、墓参りの対象としての意味をはっきりと持つというのか。
一気に読みました。
この作品、
サスペンスとして読んでも面白いし、文学ととらえて読んでも面白い。
東野圭吾の作品は面白いですね。。
これを、
東野作品を貸してくださった方がいるのです。
チョイスして貸してくださった意味も考えながら、秋の夜長の読書といたします。。
。
いつか、捨てなければならないもの。
家ではなくて、故郷と言っても良い。
新しくまるで違う世界へ