明日は3月11日。
あれから1年が経つのですね。

今日はあの日を振り返ってみたいと思います。

私は当時小学校の教員をしていました。
2時46分。金曜日。
ちょうど帰りの会が終わり、さようならをするところでした。

揺れにはすぐに気付き、
クラスの子どもたち(2年生)は全員机の下にかくれました。

揺れがどんどんひどくなり、なかなか終わりません。
女の子が「おかあさーん、こわいよー!」と
小さい声で言っているのが聞こえました。
「大丈夫。しっかりつかまっているんだよ。」
そう答えたような気がします。

そして、ホ・オポノポノの
ありがとう・ごめんなさい・ゆるしてください・愛しています
この言葉を、私はずっと心で唱えていました。
何回唱えればいいのでしょう。なかなか揺れがとまりません。

ふと壁を見ると、亀裂が入っていました。3~4cmだったと思います。
こんなところにあったっけ? え?

やっととまったので、子どもたちに並ぶように指示し、
外へと避難しました。

廊下の途中、数メートル先の廊下が大きくうねるように傾いていました。
昇降口から外に出る校舎と地面の間は、隙間があいていました。

何度も練習していた避難訓練と同じように
子どもたちを連れて校庭に並び、人数確認してホッとしてから、
校舎を振り返ったら、なんと右半分が大きく傾いて今にも崩れそうでした。
窓ガラスもたくさん割れていました。

あとで分かったことですが、私のいた学校は沼を埋め立てて造られたそうです。
周りの家はなんともなかったのに、校舎が半壊状態でした。
私の教室は1番端で被害はほとんどありませんでしたが、
反対側の教室は窓ガラスが割れてふってきて、床も大きくへこんでいたそうです。

校庭に出てよく見ると、女の子の大半、高学年の子も泣いていました。
声も出さず涙が頬を伝わっていく、そんな泣き方です。

奇跡的なことに、校舎にいた子どもも教員も全員無事で
怪我ひとつありませんでした。
本当に不幸中の幸いでした。

出張中だった校長が帰ってきて、臨時の職員集会です。
そのときに校長のスマートフォンで地震の大きさをを知りました。
思わず私の口から出た言葉は、
「原発は大丈夫ですか?」

その後、保護者が迎えに来て、子どもたちが次々と家へ帰っていきました。
引き取りをお願いする電話もメールもできなかったのですが、
大半の保護者は心配で迎えに来てくれました。
ただ、びっくりしたのは、子どもは恐怖で泣いているのに、
それを見た親が「あんた、なんで泣いてんの?」と言うぐらい、
地震の揺れ方が場所で違ったようです。

人数が少なくなってきたし、暗くなってきたので、体育館に移動しました。
私のクラスの子も何人か残っていましたが、最後に残った1人の女の子は、
ご両親とも働いていて、交通事情が悪くなかなか帰って来れそうになかったので、
おじいちゃんに家まで来てもらいました。
私は車でその子の家まで送って行きました。

家に着いたのは9時ごろでした。
我が家は水槽の水がこぼれて床下までいってしまったそうですが、
私が帰ってきたときはもう元通りにもどっていました。
息子と娘は家にいたので無事でした。
このときは不登校をしていてよかったと本気で思いました。

津波の悲惨さを知ったのは、帰宅後だったと思います。
たくさんの方が亡くなられて本当に本当につらかったろうと思います。
もっとやりたいことがたくさんあったことでしょう。
夢や希望を持っていたでしょう。
一瞬で終わりが来てしまった方々のことを思うと胸が痛みます。

そして、私自身が生きていること、それをじっくりと深く感じていました。
命はいつ終わるか分からない。
思いきり生きたい。やりたいことをやりたい。
このまま終わるのはいやだ。
そう強く思いました。

さて、この続きが書けるかどうか・・・
私には必然だったことですが、他の方に迷惑もかけました。
それを思うと申し訳ない気持ちになります。

また書く気になったら、続きを書きたいと思います。


昨日レモンを買ったのでレモンパイを作りました。
ところが、食べてみたらすっぱくない。あれ?
お店に電話で聞いてみたら、「はるか」という柑橘類だと分かりました。
今はいろんな柑橘類が出ていますね。
しかし、レモンと間違えるなんて・・・。
このはるかで作ったパイおいしいです。

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