私は自分の人間関係構築の苦手さを、いっそはなから全部オープンマインドするという乱暴な方法で回避・放棄してきたところがあって、
ずっと長いことそんなやり方してると、他人に悩みを言えないでいる人もいることを分かってるようで分かってないという、
そういう弊害を生んでたな!と
先日ある出来事がきっかけで改めて気がつかされました。
コミュ障というワード、もう使わないと決めた言葉ですが、
今回はちょっと説明するために使いますと、
私が自分のことをコミュ障だと申告すると、結構、「どこがじゃ!」みたいな反応を受ける事が多いですが、
思春期に2年もクラスメイトにスルー職人された私が、
いざそこから脱出してまともに人との関係を構築できる世界に足を踏み入れた時、
そこで段階を踏んで人との関係性を作るという努力?が出来んかったんですよ。
人が好きだけど、人が怖いから
私はこういう人間ですのであとはどうぞそちらにお任せします、みたいな、
先に全部見せといてあとは相手に丸投げするみたいな、
コミュニケーションとして、良いとはいえない、
自分をあまり大事にしてない感じの自己開示の仕方に安易に逃げてしまって
(なので、一見馴れ馴れしいんですが、れっきとしたコミュ障です)
もっというと、あんまり大きな声では言えないですが(若かりし時の話です)
例えば男の人と友達になっても、
その人がわたしになにを求めてるか分からないし、
今がこれだとしても、この先もずっとこれだとは限らない。
ずっと同じじゃない危うさ、それを探り続けるしんどさ、今は合っててもどこかで捉え間違えるかもしれない怖さ、
じゃあもういっそ、はなっからこれ以上煮ることも焼くこともできないようにしてしまうという手段に出て、
若い時はそれが原因で余計なトラブルになったりしてました(←昔の話ですよ)
これも人が怖いからなんですよ、
その怖さに直面する前に自分を安価にすることでその未来を回避してる(つもりになっていた)んですよ。
そうなんです、こんなに人が好きなのに、
人の中で生きていきたいのに、
わたしは人をあんまり信用していなかった…!
そして、克服するための努力をしないで今に至ってる…と、思います。
人とちゃんと誠実に向き合うことが出来てない。
他人を本当のところで信用していない。
はるちゃんを亡くした時に自分に感じた、どこか人間として決定的になんか欠けてる感じ、
その辺にあるんじゃないかと思うんですよね…
これもそうですね、
これってのは、こうやって書くことです。
これも物凄い自己開示欲だと思います。
私はこういう人間なんですって発表してるやつですね、
ただ自分を知りたいだけなら日記に書けばいいのに、
私は人に見てもらうことを目的として書いています。
仏教って自分!自分!っていうのを自重させるようなところがありませんか。
私それが時々しんどくて、
だって隙あらば「自分~!」って、ニョキニョキ出てくるもん、
そんで打たれるでしょ、とりあえず平らになるでしょ、
また出てくるでしょ、打たれるでしょ、
その繰り返しの中で、何にも進んでないのに劣等感だけが負債のように増えていく感じがして
なんかコレ、自分嫌いになる作業か?って思えてきちゃう時もあったんだけど、
「自分~!」を抑えられるっていうのは、
実は自分の価値をちゃんと自分で認められてるってことかな?ってちょっと今は思ってます。
私はしばしば中学時代のことを書きますが、
別にそれを言い訳のようにしているわけではないのですよ。
でもその時の躓きにちゃんと今まで向き合ってきてないのは確かです。
本当はもっと早くあの時に戻って自分を育て直さなきゃあかんかった。
って、また全然違うのかもしれない🙏
いつも全然違うんですよね~ ふぅ。
(追記)
今更ですが「コミュ障」はネットスラング的用法で使ってます!
ますますあまり適切ではなかったです。
使うのはこれで最後にします🙇