釈徹宗先生と若松英輔先生の往復書簡を読みました。  


釈先生 第1信 



若松先生 第2信




読んでまず浮かんだ言葉が「還相回向」だったので、

それについて取り留めなく書いていこうと思います。
久々に長文を書くので、意気込みが必要だ。



「信じる」とは、人間が獲得する能力ではなく、すべての人のなかに既に与えられていて、あることを契機に開花する、ある種の本能なのではないでしょうか(若松先生)



釈先生とお知り合いになって間もない頃のこと。
「晴子自身にとって自分の命に意味を見い出せたのかが知りたい」というようなメッセージを送らせていただきました。
それに対し釈先生から
「それは分からないのです。分からないという姿勢を大切にすることこそ命への敬意です」というお返事をいただいた、ということは、
何度か書いてきたことでした。


その後、何度もそのメッセージを読んで、
その言葉の厳しさと誠実さに悲しんだり喜んだり涙したりしながら、
それでも私は晴子にとっての晴子の命の意味が知りたいんだ!そう思ってきたその先に
今年3月にビハーラ安芸さんで浅野先生と釈先生とそのことについて対話するという

とんでもない出来事が待ってたわけなのですが(その時のこともまとめ中です)


考え続ける過程の中で、ある出来事がきっかけとなり

 
「晴子にとっては自分の命に意味など必要なかったのではないか?」
「意味を必要としていたのはこの私だ」


ということに気付いた瞬間があったのです。


娘の死で「我が子の死を前にしてもなお、自分の心のどこを切っても自分の都合しか出てこない」ことを嫌というほど知った私が、
それでもこの部分においては唯一私の事ではない、私の事じゃないことが知りたいんだ!ということを、たぶん心の支え(自分の中の唯一の善?利他?)(という名の逃げ道)にしていたんだと
娘のことが知りたいという大義名分を掲げながら、またしても自分の生の意味付けにしていたことに気付き、本当に苦しかった。どこまで娘を汚せば気が済むのかと。


今まで一体どんな気持ちで聞法してきたのか。
これから、どうやって聞けばいいのか。
聞くもっともらしい理由がないと私は聞けないのか。
どうしてこんなに理由が欲しいのか。
これからどうやって晴子を思っていくのか。

そんな思いを釈先生にぶつけた事がありました。(迷惑千万)


その時の釈先生のお返事をそのままここに書かせていただきます。


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FBでもみなさんがいろいろコメントされているので、

あまりあれこれ私が言うのもよくない気はしますが…(示唆が過剰になってもよくなさそう)


「意味を必要としていたのはこの私だ」は、芯にあたった気づきだと思います。


いったん、長文を書いたのですが、
意を尽くせず、
いったんあきらめて、消します。
すみません。


ひとつだけ、
智絵さんと晴子さんは、そもそもずっと未分化状態なのではないかと思うんです。

智絵さんと晴子さんは、別人格でもあるけど、多くの部分が分化してないので、
智絵さんの「徹頭徹尾、自分だけ」の中にも、

晴子さんの生は混在しているのではないでしょうか。
「自分だけ」と「晴子のため」は、矛盾したまま同一なのかもしれません。


うむ、
やはりうまく書けない。いずれまたお話することもあるでしょう。
ご放念ください。


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「徹頭徹尾自分だけ」の中に、晴子の生が混在している????


全く、そんなこと、1度も考えたことがなかった。
今まで散々考えて考えて、もういい加減許してくれと頭を壁に叩きつけるくらいに、考えてきたつもりだったけど、1度もそんなふうに考えたことがなかった。衝撃だった。


その時は


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例えばわたしが片足を失っても足は私を恨んでいるだろうか、許しているだろうか、とは思わないし、足にとっての命の意味は考えないと思います。
大切な他者の死で苦しいのと、自分自身を喪失したような苦しさと、もしかしたら晴子はちょうどその狭間にいるのかもしれない。
そう思うと命の不思議のすごいところに触れさせて貰っているのかもしれないと思いました。


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とお返事したのでした(我ながら訳分からんすぎるぜ)


つまり。
この事を考えると、

今まで泣いてわめいて刃向かってきた「晴子は還相の菩薩」ということが、
激しく抵抗してきた見方とはまた別の角度で見えてくるのではないか?ということなのです。

予感です。いまだ見えないです。


この世に1人生まれてきて自分の思考の宇宙から1歩も出られない、
いくら自分の言葉を尽くしてみても私と私以外の他者が同じものを見ていると証明できない。

我が子が私を許してるのか恨んでいるのか。一切の分かるすべがない。
いくら仏法を聞いても瞬時に自分の宇宙の言葉に通訳し直してしまう、それは本当に聞いたことになるのだろうか?

疑わしい。私は私の宇宙を通したものしか受け取れない、私のフィルターを通した時点で全てが疑わしい。


そういう私にね、晴子の生が混在しているのだったら、
それは私の中に法蔵菩薩がいるのと同じでは無いのか???

どこを切っても中から自分しか出てこないと、その自分の罪深さと孤独を嘆く私

そんな私だからこそ、本当は最初から晴子が混じってるのだったら、
そんな私だからこそ、名前を呼べと私の中で私を呼んでくれる法蔵菩薩が、実はずっとずっと遠い昔から、すでにいるのと一緒じゃないのか。



そういうことを考えてると別の私がまた囁いてくる。


「それだってさぁ、また自分の都合の良い解釈で楽になろうとしてるだけじゃないの?」


疑わしい、疑わしい。 

どこまでもまがい物のにおいがする自分から

全く離れられない。

ふと高柳正裕先生からいただいた言葉を思い出す。


「なにか違うものになろうとしてるでしょ」「なれないよ、そういう自分がいる、そのことだ」



どうしても信じられないという宗教性(釈先生)



浄土が信じられない、来世も信じてない、

死んだら塵散するだけだと思いながら聞いていることを、あるかたに咎められた時のことでした。


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来世を信じない仏教者はたくさんいます。
石田さんが特殊な訳ではないのですよ。

神も仏も浄土も信じられない人のために、浄土真宗の仏道はあると思います。

「死ねばそれまで」イコール「生命への侮辱」ではないでしょう。
石田さんの悲しみは本物なんですから。


生と死の問題は、公式に当てはめればあっさりと答えが出るようなものではありません。

三歩進んで二歩さがります。四歩下がる時も。

でもその歩みそのものが、晴子さんの生命への敬意だと思います。


あっさりとお浄土をリアルに感じる人もいるのですが、そういう人は宗教的才能に恵まれてるんだと思います。

どうも私は宗教的な才能には恵まれなかったようで、四歩も五歩もさがっちゃうんですよねえ。 

宗教的才能のある人って、ぱっと飛べるんでよねえ。

ただ、私の中には、「少なくともこの道はニセモノではない」という確信はあります。

それは本物の念仏者に出会ってきたからです。


飛ぶ・飛ばない、ってのは、どうも自分の意思とは関係ないみたいなんです。
飛ぼうとしても飛べないし、飛ばないと決めてたのに飛んだりして。


とにかく、飛ぶ・飛ばない、は横においといて、
「境界の近くまで歩いてみる」
という営みだけでも、とても宗教的だと思うんです。


とまあ、そんなわけで(どんなわけ?!)、ひとつ言えることは、私は石田さんの書く文章が好きだ、ということでして。あのような文章を書く人が、生命を侮辱したりはしないと思いますよ。


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(最後の一文は今回書きたいことに関係ないけど嬉しいから入れた 笑)



私は晴子を火葬する時に、
晴子はこの晴子以外にいない、燃やしたら灰になって空に散っていく


そういう取り返しのつかない存在だと心に強く刻みつけて自分で火葬のスイッチを押しました。


今思うと無見に近い思いでしょうか。


それは、悲しいという言葉では表現出来ないほどのことだったけど、同時に喜びでもあるはずだと思った。


こんなに悲しいのは彼女が替えがきかない存在だからだ、

こんなに悲しいのは彼女がひとつしかないからだ。

それは喜びと、もはや同じなのではないか、という気持ちです。


だから私は来世も生まれ変わりも信じてない、

というより、それがない方がいいと思ってる。
それがないからこそ起こる、喜びや悲しみに生きていくこの世界が好きで、

浄土より全然好き!と思う気持ちを持った自分のまま、仏法を聞いているわけです。

おかしいよね。実際、真宗聖典を買い求めようとした時

「なんで浄土を信じてないのに買うの?必要ないでしょ?」と、

信心深いおかたに言われたことがありました。


そんな自分は宗教的感性が皆無なんだなと落ち込むこともあった中で

釈先生が「自分もそうだ」と仰ったのは驚きでしたが、
思えばもしかしたら親鸞聖人も、簡単に飛べないから苦しかった人なのかもしれない。


逆に言えば簡単に飛べない自分を問い続けるその姿が、私を浄土真宗に向かわせたのかもしれません。


「神も仏も浄土も信じられない人のために、浄土真宗の仏道はあると思います。」




「知」と「信」が出会ったときそこに叡智が生まれる。「智」の境域が開かれる(若松先生)



仏教では「大円鏡智」、「平等性智」、「妙観察智」、「成所作智」の「四智」を説きます。四智とは何かを言葉として理解することは可能です。しかし、それを生きるには知性だけでは不可能です。どうしてもそこに「信」のはたらきがなくてはならない。(中略)
当時は、大円鏡智が何を意味するのかも分かりませんでしたが、この四字が「知」の向こう側にあることは分かりました。


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突然ですが、私の名前は石田智絵というのです。

名前を見て時々「お寺の方ですか?」と聞かれることがありますが

(石田智秀先生とおっしゃる1字違いの有名なお坊さんがいらっしゃるのです) 

むしろ宗教とは縁遠い人生を歩んできました。


両親は私の名前をつける時「絵の好きな子になって欲しい」と願ってつけたそうです。

しかし智という字を使った理由はよく分かりません。


昨年末に仏弟子になろうと心がそうなりまして、釈先生に法名をつけていただきました。

いくつか候補をいただいた中で「これがいいな」と思ったのが、「智円」

まさしく「大円智鏡」からの「円」でした。


自分の意識の届かない領域に関しては、無防備なほどに五体を投げ出して生きているくせに、

理屈が大好き、理屈から離れられないと嘯く。

なんでも自分の宇宙の言葉に換え、娘の死さえも自分の糧にしてしまう。自分の本性に苦しんでいるふりをしつつ、

そんな自分やその自分が成り立つこの世界が好きだから、信仰の海に飛び込むことも出来ず、

なのに仏法を聞いているこの私はなんなんだろう。


生まれた時に名づけられた智
仏の弟子として名づけられた智


…なぁんて言葉にすると、なんだか自分は「運命に選ばれし」的な?(勇者?)

特別みたいに思ってるんじゃないのぉ?って声も聞こえてくる予感(それも自分の声)


違う違う!これを書くのはとても難しいんだけど、

以前書いた高柳さんのご法話レポの1部が

そうではないことのヒントになっている気がするので、

最後にそれを貼り付けて今回のレポートは終わりとします。


往復書簡の続きを楽しみにしています!


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(略)


で、私が「なんだ高柳さんもそうじゃん一緒じゃん」って決めつけて冷めた気持ちで聞いてたら、同じことでしょ。


ここで高柳さんが前回おっしゃった

「そうでない自分になろうとしてるよね」

「なれないよ、そういう自分がここにいる、そのことだ」という言葉が蘇ってくる。


あと、先日の本證寺さんで岡知道先生のご法話。

お聴聞のあと、 

私の質問した内容にいただいたお返事


「私もそうです、そういう私のまんまここで反対のことを喋ってる」


これが大ブーメランだとしてそれを自覚の上前に立って話すなら、法話者ってほんと、すごい。


そんで、高柳さんのような人でさえそうなんだという失礼な捉え方をしたとして(それは良い悪いではなくて)

そう考えたら、高柳さんの言う、無明の底知れぬ深さと、高柳さんの言う「恐ろしさ」がリアルに感じられて、本当に黒々として感じられてゾクッとした。


ご本人がお話にそう思わせるギミックを仕込んでるのかは分からない。 仕込んでるんだとしたらすごい。捨て身。

でも仕込んでない、無意識でブーメランになってるのだとしても、話してる内容そのものなんだよね。

自分の無明を自分でコントロール出来てると思ってる?というところだ。出来ないってことをそのまんま体現してる。

そんで、出来ない、のところで、本人の意識から離れたところでこうやって私に思いもよらぬ伝わり方してるんやとしたらさ、

これはすごいよね。不思議さってところだよね。

これが還相の菩薩ってことかとも思う。

いいことばっか言う聖人みたいな人だけが、菩薩じゃない。


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