滋賀での釈徹宗先生の講演会まとめその3です。

中盤に落語のお話が出てきました。
こんにゃく問答。
私、このお話をまとめるのに、とても苦心して、
先にお話の後半をまとめたのですが、 
結局どうにも落語が説明できないので
どんな落語かについてはYouTubeで…(丸投げ)

※ウィキにあらすじありました
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%92%9F%E8%92%BB%E5%95%8F%E7%AD%94

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この話で、1番得した人は誰か。
1番学んだ人は誰か。
雲水さんである。

この人はガラクタを並べられているのに、
見事に仏法を学んで帰った人。

逆にどれだけ素晴らしいものを並べてもらって聞かされても、
「聴かせていただこう」という思いがないと
耳にも目にも入ってこない。私達の心はそういう仕組みでできている。

どうして、このような勘違いが起こったのか?

それは、雲水さんがいつも求めているからです。
 
この話はここで終わりだが、
私は、雲水さんはきっと立派なお坊さんになったに違いないと思う。

何故なら、いつも求めているから。

学びとはそういうもの。仏法に限らず、人生も、学校教育も。
こちらの聴かせていただこうとする心と体
求める心があれば、あらゆるものが仏法を説く

鳥取県に源左という念仏者がいる。
親の遺言で一生懸命お寺通いをするが、
いくら聴いてもわからない

ある日農作業で刈った草を牛の背中に乗せている時に分かった

なぜこんなことが起こるか。
 
いつも求めて暮しているから。

日常生活の中で仏法をきく。
 
ある日パズルのピースがパチッとはまったら、
パッと見えてくる世界がある。

道を歩み続けないと見えない。
ずっと聴聞を重ねるからこそ見えてくる世界がある。

「吹く風の音も鳥のさえずりも仏法を説く」ということは、起こりえる。

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この落語、蒟蒻屋の六兵衛さんと、問答をしかけた雲水さんの考えていることがまるで違うってのが面白いところ。
まるでアンジャッシュのすれ違いコントみたい。
(すれ違いコント…ささいな誤解からお互いが勘違いをしたまま会話が進んでいってしまうというもの)
というか、順番的に言えば、アンジャッシュのコントのルーツが蒟蒻問答なのかな?
そう考えると現代のお笑いとちゃんと地続きで繋がっている。なんとなく難しいんじゃないかと思ってた落語に俄然興味が湧いてくる。

私は、相手の思っていることと全く違うことを受け取って「出直してきます」と帰っていった雲水さんの話を聴いてすぐ、
「相手と話してるつもりでも実は鏡に写った自分と話している」ってことの象徴かと思ったんですよ。

話を聴き続けて、先生は雲水さんのことをなんとおっしゃったか。

「並べられたガラクタの中から見事に仏法を学んで帰った人」

もうね〜😂

先生の受け取り方の深さに比べて、私のなんたる浅いこと!
小さじスプーンですよおちょこの裏ですよ…「出直してきます」と雲水さんのセリフが思わず口から出そうになる。

この話には更に後日談がありまして。
講演会の数日後、釈先生から突然このようなお言葉をいただく。

『石田さんの文章は考えさせられます。勉強になります。』

😲

道端に散らかった石ころのような私の言葉で、先生がなにを学ぼうとされているのか、
私には全く想像もできないww

まさしく並べられたガラクタからも学ぼうとされている釈先生。…雲水さんだ!

そして、このことが先生のお話の魅力のひとつであることに気付かされる。
私の口から雲水さんのセリフがでそうになったと思えば、後日違う視点で今度は釈先生から雲水さんを感じられる。
知らない他人の出来事をふーんって聴いてる感じに、全然ならないんです。お話の中の登場人物に、いつも私がなれてる感覚。
そして聴いて時間が経ったあとでも視点を変えまた他の自分のこととして蘇ってくる。

先生は意図的にそうお話されてるんでしょうか。そうだとしたら身震いがします。