「期待した子の死」という言葉は少しショッキングな響きがあるけど、
読んでみるとなるほど、と思う。

≫親は子供を授かったとき、元気な子が生まれてくることを誰もが期待します。だからこそ、生まれてきた子に重い障害があったそのとき、親が直面するのは「期待した子供の死」であるのです。

私はある意味「期待した子どもの死」の状態のままストップしてしまった。

≫死を宣告された終末期の患者は自らの死を受け入れる際、「否認」「怒り」「取引」「抑うつ」「受容」という過程を経るというものです。勇太くんのお母さんのたどった受容のプロセスは、このロスのモデルと非常に似ています。

私は晴子の障害を受け入れるプロセスを晴子の死で、
自ら手放してしまったのだと思っている。

私の場合、「期待した子どもの死」から「本当の死」になってしまったので、
否認→取引→後悔→容認→自責→自責→自責…という感じだった
自分で手を下したと思っている私のケースはちょっと特殊なのかもしれない。

「晴子の障害を受け入れともに生きていく人生の死」から、
私はなにを生に繋げていくのか?

それを探していくことは晴子を踏み台にしている気がして、
私の人生を豊かにするためだけのあの子の命だったと言ってるような気がして、

なかなか受け入れ難く、それを求める自分に嫌気が差したりもしてたんだけど、

考えてみれば生と死は日常にたくさん起こっていて、

例えば航暉が、目があってニコッと笑うようになったのは成長なんだけど、
新生児微笑はもう二度と見ることができない。

せんべいを持って食べられるようになり、手と足がわっきゃわっきゃ動いてたのはなくなった。
(随意運動を獲得するということはすなわち原始反射の喪失でもある。)

陽路がいっぱしに反抗期なのは幼児期の死であり、

悠季乃が正しくお話できるようになったことは、
可愛い言い間違いの死であり…

つまり、

晴子を失ったのが、
子どもを亡くした母としての人生のスタートでここからはじまり、また何かを得ていくことは、
そんなに罪では無いような気もする。
踏み台にしてるわけではなく、ただ、死んで生まれる。
そんなひたすらに起こっている現象の一部でしかないのだろうか。