過去のお話会のレポ記事は☆こちらです☆
さて。5月2日は、小笠原和葉さんが主催する、松田 仁さんのお話会、第五回でした。
(左が和葉さん、右が松田さんね。イマイチな写真で申し訳ない)
毎回、毎回、松田さんの膨大な知識量に圧倒され、脳味噌がシャッフルされるというウワサのこの講座。
(ちなみに私は、初回から第三回くらいまでは、もうブルンブルンに振り回されていましたが、
5回目となった今、このブルンブルンっぷりにやっと慣れてきました…)
まずは、
松田さん:「毎回ね、この会の前には、だいたいどんな事を話そうかな~って考えてきてて、
調べた事とか、内容をまとめたメモを作って、いちおう、持って来ているんですが
今日ね、そのメモを忘れました(←一点の曇りもない笑顔)」
という衝撃の挨拶から。
会場は大爆笑。
和葉さんは
「えーーーっ!?そ、それでその落ち着きっぷりは一体……!?」
とアワアワしてましたが
松田さん:「メモは忘れましたが、一応メモを作ったのは僕ですから。
だいたいの事は(頭に)入ってますから、大丈夫です(*^▽^*)」
という言葉通り、ほぼこの後も問題なく進んで行ったのでした…(今回も凄かったですよ)
以下、いつものように私というフィルターを通したレポである事をご了承下さいませ。
今までもお話してきた事ですが、僕は「モデル」というモノの考え方を提案しています。
その場その場で、より物事が上手く行く物の見方や考え方があり、それを「モデル」として採用していく。
例:
「太陽は東から昇り、西に沈む」という「物の見方」は、
日常会話では「モデルとして採用」しているけど、
理科の授業中には「動いているのは地球です。太陽ではなく。」
という「物の見方」を採用した方が、スムーズにいきますよね。
その「場」で、より「しっくり来る」モノの見方(モデル)を採用すれば良い。
特定のモデルに縛られる必要はない。
そして、自分の採用しているモデルを、唯一の真実だ、と思わなくてOK。
(ここが、ゆるくいきましょう。って感じで個人的に好き)
さて。一般的な「モデル」としてよくあるものですが
「自分の周りには色んなモノが存在している」という考え方がありますね。
「特定の場所に、【ナニカ】が存在している」というモデル。
では。質問です。
この赤いマーカーは(と言ってマーカーを手に取り)、「存在」していますか?
(参加者:「…存在、しています…」)
うん。そんな感じしますよね。
では、今皆さんが聞いている「ボクの声」は、「存在」していますか?
どう?
参加者:「目には見えないけど…存在しています…」
うん。
じゃあ、オバケのQタロウは?「存在」していますか?
参加者:「ま、漫画の中に存在しています…」
だんだん「存在しているかどうか」って、怪しくなってきましたね。
じゃあ。この絵を見て下さい。
(注※実際松田さんが持参していらしたのは、白黒の絵でしたが…)
これは有名な絵なので、知っている方も多いと思いますが
見方によって、若い女性に見えたり、老婆に見えたりする絵です。
ここには
若い女性、が存在していますか?
それとも
老婆、が存在していますか?
これをね
「若い女性だ」と思って絵を見た時、老婆の存在はどうなりますか?
「存在…しなくなる…?」
「潜在意識にかくれてしまう…」
「若い女性と老婆が、ほとんど同時に存在している気がするんですが…
実際には、若い女性が存在して、その次の一瞬に老婆が存在、
して、いるんでしょうけど…」
そうですね。
どちらも存在していない、という考え方もありますよね。
これはただの紙で、老婆も若い女性もそもそも存在していない、という、
これは仏教的な考え方ですけどね。
(※えっと、ここで、私のベース感覚がいわゆる仏教だったという事に改めて気付く。笑
どちらも存在していない。
でも、若い女性がいる…という幻想を信じた時には、若い女性が存在するような気分になり、
老婆がいる…という幻想を信じた時には、老婆が存在するような気分になる、
…と、考えていました。
でもあの瞬間にはうまく言葉に出来なかったのでレポで後出しジャンケンぽく書いてみる(笑))
「場」というモデルを採用した方が良さそうです。
ある特定の空間がある、のではなくて
「場」の中に空間がある。
(ふぅ。HPがすり減りました…ので、続く)