先週のショックなニュースから
もう一週間が経ってしまいましたね。


あまりに衝撃的で、
心に深い悲しみが押し寄せてきて
その日はあまり眠れませんでした。



私は心の綺麗な人が
傷つくのを見るのが一番辛いです。

どうか、心の綺麗な人が
救われる世界であってほしいです。





自らの命を断つ時って本当に突発的で
究極に辛い時よりも
その辛いことが一旦片付いた後であったり、

ふと力が抜けた瞬間に
人間はあっけなく引き摺り込まれて
しまうんですよね。


だから心の強さは関係なく
誰だってほんとうは
常に死と隣り合わせで
いつ自分にもそういった衝動が来るか
分からない中で、私たちは
奇跡的に助かった一日が続いて生きています。



何が引き金になったのか、
それはその時の本人にしか分かりません。

ニュースでは批判や卑劣な誹謗中傷などが
言われていますが、それだけが
理由じゃない気がします。



もちろん心無い言葉を投げて
人を傷つけるのはあってはならないこと。

だけど“批判”と言われている
寄せられたメッセージの中には、
ご家族のことを思っての意見や
愛のつもりで言った厳しい意見も
あったのかもしれません。



本人の生き方の自由があれば
その表現の自由もあって

また受け取り方の自由もあって
見る人は意見を発言できる自由もある。


自由な世の中というのは
各々がしっかり自分を愛する力を
持っていないと潰されてしまいます。



「自分らしく生きるために」
やっと本当の自分を隠さず
生きられるようになったはずなのに、、

それなのに自ら命を断とうと考えるくらい
生きるのが辛く苦しくなってしまったことに
自分らしく生きることの難しさを感じます。



それはマイノリティの方々だけの話でなく、
どんな人にとっても
「自分らしく生きること」は永遠の課題
なのではないでしょうか。




自分らしく生きることが
どうして難しいのかというと、
 
それは誰もが

大切にしたい「自分らしさ」の中に
『大切な人を傷つけたくない』という
思いがあるからだと思います。



自分らしさにある自分の望みと
大切な人の望みが必ずしも
イコールとは限らないから、

「自分らしく生きること」が
「罪悪感」に感じてしまう時が
あるかもしれません。



「大切な人を傷つけたくない」

だけど、だからと言って
自分を偽っては生きられない。

本当はいい親も
いいパートナーも定義なんてなくて
家族がいいって言ってくれたらそれだけで
真実が証明されているはずなのに

“理想の” という誰かが勝手に決めた常識は
自分が自分らしく生きることを
許せなくさせてしまうものです。


自分の決断が理解されなかった時、
適当な罵詈雑言よりも“真っ当な意見”が
深く刺さってしまったりするんですよね。



自分で自分のことを裁いて葛藤する中で、

自分が罪悪感を感じている一番の急所に
批判の声は突き刺さってしまうもの。


このような悲劇は
私たちにも起こりうることです。




誰かの希望に沿うような
理想の自分にはなれなかったこと、

そして次に本当の自分らしく
生きていこうとしたけど

その道も誤解され続け
理想とは違ってしまったこと、
ポジティブな道のりではなかったこと、


どの道を選んでも
なりたかった自分にはなれずに
かけ離れて受け取られていってしまったら
生きることに絶望してしまいますよね。




彼が選んだ道は
自分に正直な道で

それを理解できない人の反応も
正直なもの。



同じ様にいつかあなたが
あなたらしく生きる道を選んだ時、
それを批判する人が出てくることが
あるかもしれません。



私も私らしく生きている以上、
私の生き方を批判する人や
私のことが嫌いな人がいると思います。

でも、それは是非もないこと。



それは、その人たちに
私のことがよく分からないように
私もその人たちがよく分からないから。

お互いに理解できないのは仕方ないから
私は私、その人はその人の考えが
社会の中に存在してもいいと思っています。



ただ、人がつける評価を気にして
自分を価値なき者にしちゃダメです。


だってその評価の基準って実は
「理解できるかどうか」でしかないから。

「良さ」で評価している訳ではないんです。
だから評価や共感を得られなかったとして
それが「悪いもの」ではないのです。
「悪いもの」にしているのは自分の罪悪感。



批判に潰されないように
ではなく、

自分の中の罪悪感に
潰されないように。



「自分らしく生きる」とは
「自分を愛せる生き方をする」
ということです。


それが誰かに愛されない生き方でも、
自分だけは愛してあげること。


人が生きていく上で最も大切なことは
自分を愛することです。


自分らしさが身勝手だと
認められなかったとしても
自分だけは認めてあげること

弱くて脆くて情けない自分でも
許してあげて寄り添い続けること。

自分の素直な声を聞いて
行動することだけじゃなく、

その行動をしている自分を
称賛する声も自分にかけてあげてください。




LなのかGなのか
BなのかTなのか
FなのかMなのか


人は好き勝手にあなたをカテゴライズして
「〇〇としてのあなた」を求めてくるでしょう


でも一番大事なのは
「I」であること。




他者からの愛情で
代替えすることができないのが
自己愛です。



そして極論
私たちは人生という長い時間をかけて
「自己愛を持ちたい」というテーマを
果たすために生まれてきているのです。


だから愛せる自分になるために
「自分らしさ」を求めるのかもしれませんね。




人は人に対して
善悪をつけてくるけど

幸不幸を決めるのは自分で、
その幸不幸を感じさせるのは
自己愛があるかどうか。



共感や称賛だけの生き方って無くて
自分らしく生きることを選択した時、
必ずどこかで非難を浴びます。


でも、だからこそ
応援する人が出てきてくれたり
その熱が高まるんですよね。

そしてその中で
これまた生きる上で大事な
恩や絆というものが生まれるのです。



だから批判を恐れずに。



先述した通り、何があったのか
真相は本人しか分からないから
批判が本当の理由ではないかもしれないし
決めつけるつもりもありません。

ただ、騒がれている「批判」について
今回私なりに考えて書いてみたくなりました。


もしかすると心を引き裂かれるような
裏切りがあったのかもしれないし、
裏で理不尽なことに巻き込まれて
いたのかもしれないし分かりません。

でもそれらの不遇に対しても、
裏切られるほど信じることができた「自分」や
大変な中でも必死で頑張っている「自分」に
光を当てられる自己愛があったら
未来は変わったかもしれないからやっぱり
自己愛は生きる上で重要なものだと思います。



自分だけは自分のことを
何があっても いつでも
一番に愛してあげてください。

あなたがあなたを愛してないと
あなたを愛している私は悲しいから。
これだけは忘れないでいてください。


自分らしく生きたいと切望した時は
自分からの愛を切望している時です。