「すべての悩みは対人関係の悩みである」

といいますが、その悩みって人生に
必要なものだと最近は思います。




悩み、までいかなくても
多少世話の焼けるやっかいな人が自分の世界に
存在するのはむしろ良いことなんじゃないかな。
全然、問題じゃない。
 

全部が全部、自分の思い通りに
なってしまったら面白くない。
人との関わりが自分を一番成長させてくれます。




基本的にこの世で関わる人は自分の鏡で、
夫婦でも親子でも友人でも職場でも、
縁があったということは

相手のマイナス部分は必ず
自分の中にもあります。


自分の成長に合わせて関わる人は変化していく。
だから“合わない”と思う人こそ実は魂目線の
マクロの世界で見たら自分に“合ってる”のです。




と、理屈では分かっていても
なんだかため息の出てしまうような話。

でもだからといって
自分を責める必要も落ち込む必要もありません。




だって、あの
イエスも、ブッダも弟子に
手を焼いていたのですから


「イエスにユダ、釈迦にダイバ」
という言葉があるくらい、
どんなに徳を積んだ善人のもとにも
厄介者はやってくるのです。


むしろ、徳高い人こそ
一人で何もかもうまくいってしまうから
周期的に身近に厄介者が配置されるように
なっている気がします。






ブッダのお弟子さん(従兄弟)で、インドでは
ブッダに次いで2番目に優れたダイバダッタ。

しかしダイバダッタはとんだ厄介者でいつも
ブッダに背いて邪魔ばかりするような人でした。
この絵は象にブッダを襲わせてるシーンです。
(超迷惑ー。笑)




ダイバダッタの存在が唯一、
生涯ブッダの頭を悩ませていたのですが


ここはさすがお釈迦さま、
そのことに対して


ダイバダッタがいたおかげで
自分はこれだけのものを悟ることが出来た。

と、残しています。




悩むことがなかったら
人は成長しないから、

変わらない人を相手に
自分が変わることができたら
人生にも大きな変革をもたらします。



このことからダイバダッタの名前は

【天授達多】天からの授かりもの

という意味が込められているようです。


 

別に合わない人間関係を
無理する必要はないけど、

家族や職場やご近所さんでどうしても
逃れられない厄介者が現れた時は
「ダイバダッタが現れた!」
と考えてみたらどうでしょう。



私は、自分にとって
不具合だなという出会いはすべて
その時のダイバダッタと受け取っています。

私はすぐ調子に乗って
傲慢になってしまう性格だから
ダイバダッタがいてちょうどいい重しになります。


もちろん、ダイバダッタに出会した時は
一瞬この顔になるんですけどね。(笑)





イエスにユダ、釈迦にダイバ、
アマテラスにスサノオノ、
私に〇〇と、唱えてみたら
なんだか笑えて肩の力が抜けてきますよ。




相手のマイナス部分は
自分のマイナス部分をプラスにしてくれる。


ダイバダッタと出会い、
多くの学びを得ることで自分の内側にあった
マイナス部分がプラスに変わっていきますが、

内側がプラスに転じたことにより、
今度はプラスとプラスが引き合って

自分にとってプラスとなる
人間関係を運んできてくれます。




たとえば
自分本位な隠れた性格を持っている人が
自分本位なダイバダッタに出会った時、

関係性の中であなたが折れて
「思いやり」を持つようになる。

するとあなたの中に芽生えた思いやりが、
思いやりある人を運んできてくれるという訳です。




ブッダにはダイバダッタという
悩みの種がいましたが、

代わりに何百人という
ブッダを慕う人たちがいて

優秀で頼りになる10人の
お弟子さんにも恵まれていました。




自分を攻撃してくる人が1人いたら、
自分の味方をしてくれる人が
少なくとも10人はいます。


嫌な人に遭遇しても
必ずその倍、良い人に恵まれますから。
むしろ良い人に出会うヒキが強くなります。



なので人間関係は良いバランスで
成立っていると考えて、あまり深く
悩まないように気持ち切り替えていきましょ。



未熟な人との出会いは
自分の成熟させるチャンスです。


何もかもうまくいって胡座かいてると
何もかもをダメにして失ってしまいます。


そうならないために、
人生に時折現れるダイバダッタの存在は
あなたが見事な人生を迎える目的に
繋がっているのかもしれませんね。