“「私」という制限。”


ある日このワードが空から降ってきて
そこから着想を得て本を書き、
最近もずっと考え続けています。



『私はこうだから』
『私には出来ない』
『私は理解されない』
『私がやらなくちゃ』

世界には「私」が不可欠で
「私」という視点からでしか
見ることができない。



でも、
この「私」という枠が
なくなったら世界に対する壁も
なくなるんじゃないかな。


「私」が消えた時、
見えていなかった壁の向こう側の
世界が現れる。




自分にとって
不幸に思える出来事が
目の前に起きたとして、

それはどこからどう見ても
本当に不幸な出来事なのかな?

陰に傾倒してしまっているから
今見えてこないだけであって、
片側には必ず光もある。


ただ起きただけの出来事に対して
不幸と決めつけているのは
「私」だけなんじゃないかな。


人生に善・悪はないと思う。

「善い」と観測する人、
「悪い」と観測する人がいるだけ。



私は「私」という制限の中を
生きているだけであって

世界はもっともっと広い。

本当は悪も苦しみもなくて、
作り出しているのは全部自分。

誰かが
あなたのことを批判した時だって、
それも相手が、
相手の「制限」ある中で
あなたを見て言っただけ。

世界はもっともっと丸い。



たかーい所から
「私」を見下ろしてごらん。

誰かに言われた言葉で
傷つく「私」がいて

誰かのことを悪いと
思っている「私」がいて

自信を失い
苦しんでいる「私」がいるだけ。


でも、
誰に何を言われようと
傷ついて、苦しんで、自信なくして
たとえ社会から悪と見なされても


「私」がいる。

その価値は絶対的で
「私」の輝きは変わらないんだよ。



『私はこうだから』
『私には出来ない』
『私は理解されない』
『私がやらなくちゃ』

そう思ってるのは自分だけ。
何が出来たって、何が出来なくたって
あなたの価値は変わらない。

誰にも責めることはできないし、
自分を一番責めているのは
自分自身なんだよ。



『私は〜しちゃいけない』
『私は〜しなきゃいけない』

一気にたくさんのものを抱えて
全て自分の中だけでやろうとするのは
責任感ではなく、世界に対する壁。



自分の持つ無限の可能性に
抑圧をかけているのは
「私」という制限。


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…とね、いま
「遅刻はいけない」という
私の制限から抜け出してる途中(笑)


私の制限というより
時間の制限だけどねっ笑い泣き


だれもそこまで
責めはしない。

許してくれない「相手」も
「私」がつくり出すと解っているから

(みんな許してくれるはず…
という希望を込めて)

私は自分を許す!!!