
「現実が先」という生き方
私たちは普段
「現実は自分が創るもの」
あるいは、
「努力や行動によって結果が決まるもの」
という前提で生きていることが多い
それは つまり、
思考→行動→現実
という順番で世界を見ています
しかし、現実との関係をもう少し深く観察してみると、実は逆の順番が存在していることに気づくのです
それが
【現実が先】
という視点で
それは
-コントロールではなく共創-
という視点です
現実は必ずしも自分が
創っているわけではない
日常の出来事を振り返ると
私たちが計画していないことや
意図していないことが自然に起きることは多い
偶然の会話
思いがけない出来事
突然のタイミング
誰かのひと言…
こうしたものがキッカケとなり
現実が動いていくことは珍しくありません
つまり現実は、
「自分が創り出すもの」
というよりも
「すでに起きてくるもの」
という側面を持っているのです
この視点に立つと、
私たちができることは一つ
それは、
起きた現実に どう応答するか
という選択です
意図は持っていいが、
コントロールは必要ない
ここで誤解してはいけないのが、
願いや意図を持たない方がいいという話ではなく
むしろ、
・こうなったらいいな
・こんな体験がしたい
・こういう関係が心地よい
といった本音の願いは とても大切です
なぜなら 願いは、
人生の方向性を示すコンパスだから
しかし 願いとコントロールは別物
多くの人は
願い→現実を操作する
という形で生きています
しかし「現実が先」という視点では
願い→現実を信頼する
という流れになるのです
願いは持つ
けれど、現実を無理に動かそうとはしないこと
そうすることで
現実は自然なタイミングで動き始めるのです
「中庸」という在り方
この生き方を支えるのが
"中庸(ちゅうよう)"という感覚です
中庸とは、極端に偏らない状態のこと
例えば、
「絶対こうならなければならない」
という執着も
「どうでもいい」
という無関心も
どちらも極端な状態になります
中庸は その真ん中にある状態
つまり、
・願いはある
・でも執着はない
という状態
この状態にいるとき
現実に対するコントロール欲求が自然に消え
出来事の流れを観察できるようになります
そして、
現実が運んできたものに対して
自分の本音で選択することが出来るのです
もうひとつ重要なのは、
「世界の中の私」ではなく
「私の世界に現れる出来事」
という視点です
普段の私たちは、
・大きな世界の中の小さな私
・誰かの人生の中の登場人物
として自分を捉えがちで
この視点だと
・嫌われないようにする
・期待を裏切らないようにする
・相手に合わせる
という生き方になりやすいですが
視点を変えて
「私の世界に人や出来事が現れる」
と捉えると どうでしょう
この場合、自分が世界の中心に戻る事ができ
それは決して「自分が偉い」という事ではなく
ただ、自分の人生の主役は自分 という
当たり前の事実を取り戻すのです
この視点に立つと
人との関係も、出来事への向き合い方も、
自然に丁寧になっていくのです
「私の世界」という視点は
人を支配するという意味ではありません
相手にも相手の人生があり
相手もまた自分の世界の中心で生きています
つまり、
ふたつの人生が交差している
という状態です
この関係は支配でもなく、依存でもない
ただ、対等な交差点で在るのです
このとき人は
相手に期待を押し付けることもなく
自分を犠牲にすることもなく
自然な形で関係を育てることが出来るのです
コントロールではなく共創
よく「現実創造」という言葉が使われますが
それは必ずしも
現実を支配することではありません
むしろ本質は現実と共に創ること
私達は
・本音を持つ
・意図を持つ
・自分の感覚を大切にする
そして、
・起きた現実をみる
・その中で選択する
この繰り返しの中で
人生は自然に形作られていくのです
ゆりかごの様な安心感
この生き方に慣れてくると
人生に対する感覚が少し変わってきます
無理に現実を動かそうとしなくても
出来事は自然に起きてきます
その流れの中で「次はどんな展開が来るのだろう」という軽やかな好奇心が生まれます
まるで、ゆりかごに揺られているような感覚で
そこには、
・力み
・不安
・コントロール
が一切ないのです
ただ信頼と選択だけがあるのです
最後に、
「現実が先」という視点は
何もしなくていいという意味ではありません
それは、
・願いを持ち
・現実を信頼し
・起きた出来事に本音で呼応する
という生き方です
私達は人生を支配する必要はなく
ただ、人生と一緒に踊ること はでき
そのとき 現実は驚くほど自然に
私達の前に道を開いていくのです。