人は自らの利益を最大化するように行動する。
というのは経済学の常識だそうだ。

ある程度までいくと、引き続きそれを最大化するために、関係各位が均衡点を探りあい、身動きがとれなくなるという。(ナッシュ均衡)


それは国を動かす政府もそうだ。
例えば、出来るだけ多くの資金を自国に誘致するために、法人税や労働基準の引き下げを競い合い、大企業への課税を減らす。
また一部の人に指示の高い”破綻に向かっている事業”に立て直しの大量の予算を組み、国民の税収の使い道を決める。
そうやって利益を最大化できる関係者と共に只今均衡真最中だ。

急速な高齢化の中社会保障の需要が高まり財政が非常に厳しい状態なのは周知の事実。
それでも利益を最大化できる均衡を続けた結果、国民への皺寄せとなり、負担が増え、格差を拡大、社会が疲弊している。
社会が爆発でもしない限り、その均衡は解けないのだろうか。


過去社会が爆発した歴史がある。
フランス革命時代の社会を見てみる。

当時は第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)、第三身分(平民)とわかれていて、第一、第二身分は、税金を納める必要がなかった。
ルイ16世のころ、それまで領土拡大のため戦争にあけくれた国の財政は破綻寸前。それでも第一、第二身分の贅沢三昧は続き、平民が納税や飢えに苦しんでいた。
明らかにアンバランスな社会で、少し考えればいつか破綻するのは目に見えている。
現状を打破しようと幾度と財政改革を試みる人間も少なからず存在したが、第一、第二身分の激しい抵抗にあい、結局のところ政府は何も変えることができず、市民革命にまで発展していった。


歴史は繰り返されるのか。
先を見れば答えは簡単なのに、止められない。
既に一生困らないほどの利益を蓄えていたとしても、今もらえるものがもらえなくなるのは惜しい。
これは人間の性だろうか。


客観的に見れば、合理的にものごとを判断できなくなっているように思える。

利益元を持ちすぎると自由でなくなる。のか。

その呪縛から解き放たれて、何も恐れることがなく個々が自由に発言・行動ができるとしたら、自らの経験や知性をもって、彼らは一体何をするだろうか。



突然だが、今は”自己責任”の時代だ。
80年-90年代、大きな政府から小さな政府を促す新自由主義政策が世界的に進められ、新しい時代に突入した結果、いろんなことを自分で選択できる反面、リスクも伴う時代に入った。

インターネットの普及やグローバリゼーションに伴い、ものやサービスの選択肢が格段に増えたこともあげられるが、自己責任の社会が”個人化”を生んだという見方がある。

"「個人化」とは、職業やライフスタイルや人間関係や消費などのあらゆることが、社会の規範や規制といった枠組みによらずに、個人の選択の対象になってきたことを意味する。"(http://d.hatena.ne.jp/araiken/20130106/1357487712 一部抜粋)

親、伝統、社会規範という枠組みから離れて、自分がある程度自由に選択する(リスクは自分)感覚が生まれた

そこで陥るのが、何が良いかがわからない問題だ。
情報が多すぎる時代、意見があれば反対意見がかならずある。

余談だが、朝にりんごがダイエットに良いといえば、身体に悪いという医者が出現し、
今度はバナナかと思えば、糖質だから朝からフルーツは避けたが良いという。


ダイエット法は置いておいたとして、
その中でも自分に選択肢が課せられたわけだから、決断できる何かが必要だ。

そこで、「自分らしさ」がカギとなる。
自分に合う選択をするには、「自分らしさ」を知っている必要がある。

先進国の若者は「自分らしさ」を求めて自分探しに夢中になっている。
現に本屋に行くと、自分探しにまつわる本が、ビジネス書、自己啓発本、哲学書、ファッション誌に至るまで棚を占拠している。


「自分らしさ」を追及している人間は、社会から自由でいることを求めるだろう。

自由を奪われる、止まらない”無限の利益”は不人気になるのではないだろうか。

自由のために大量のお金を求める人もいるが、それは結局のところお金から自由にはなれないのではないだろうか。

「自分らしさ」を優先に考えると、違った景色が見えてくる。

「人は自らの利益を最大化するように行動する」
それはどんな時代になっても変わらない人間の性に思える。

しかし、「自分らしさという利益」は、人それぞれ形や大きさが違うはず。
そしてそれは、考え方一つで一瞬にして満たされる場合がある。


それは一つの希望でもあるかな。