労働観
今日はメーデーということで、少し労働というものを考えてみましょう。
西洋キリスト教(特に旧約聖書・創世記)の伝統的な解釈において、労働はしばしば「失楽園の代償」として捉えられてきました。
アダムとエバが禁断の果実を食べたことにより、人間はエデンの園を追放され、神はアダムに対し、「お前は一生、苦しんで地から糧を得る。顔に汗を流してパンを得る」と告げました。
労働はアダムの原罪に対する神からの罰(ペナルティ)、苦しみを通じて贖罪する「苦役」という側面が根底にあります。
ただし、近代に入りヴェーバーが、世俗の職業を神から与えられた「召命(ベルーフ)」と捉え、禁欲的に励むことが救いの証であるとも説かれました。
一方、日蓮聖人は法華経の「資生産業、皆順正法」を基に、生活を営むための仕事や産業は、すべて正しい法にかなっている、という一節を引いて教えられた通り、世の中の仕事はすべて仏法の実践そのものであるとされます。
煩悩即菩提・生死即涅槃と、現実の苦しみや活動の中にこそ、悟りの智慧があるという考え方です。
日々の業務に励むこと自体が成仏への修行です。
「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」と日蓮聖人は「今いる場所を霊山浄土(浄らかな佛の世界)に変える修行」と定義します。
仕事に励むことそのものが、そのまま尊い信仰の実践となるのです。