

今日は月例の施餓鬼供養、お参りの方々とともに御先祖様へ感謝の祈りを捧げました。
法要後の法話で、境内の蓮の花が教えてくれたことをお話させていただきました。
長年、「境内に蓮を沢山咲かせたい」と願っていたことが、ようやく今年叶いました。
住職が鉢と土を用意し、種を植え、水をやり、毎日大切に育ててきました。
そして、驚くほど見事な蓮の花が咲いたのです。
「全部、住職さんが作ったんですか?」
そう聞かれれば、実際に植えて、水をやって育てたのですから、「はい」と答えます。
「短期間で、よくこんなにたくさんの花を咲かせることができましたね。すごいですね!」
そんな言葉をいただくこともありました。
けれど、よくよく考えてみると、自分がしたことは、ほんのわずかなことだったのです。
蓮を育ててくれたのは、
土。
太陽の光。
水。
そして、自然そのものの力。
一つひとつの力が重なり合って、初めて花が咲いたのです。
大きく見れば、蓮を育ててくださったのは、仏さまなのではないでしょうか。
「自分が育てた」
と思うのではなく、たくさんの力に支えられて、花を咲かせることができた。
そのことに気づかされたのです。
私たちも同じです。
自分の力だけで生きているのではありません。
誰かの力、自然の恵み、目には見えないたくさんのご縁に支えられて生きています。
だからこそ、おごり高ぶらず、すべてを「お陰さま」といただく。
蓮の花を見ながら、そんなことを教えられました。
目の前の食事にも「お陰さま」があります。
智弘院では子供修行があり、その中で、食事の時にこんなことを教えることがあります。
目の前に運ばれてきた、この食事。
「誰に感謝しますか?」
そう聞くと、多くの子どもたちは、
「作ってくれた人!」
と答えるでしょう。
もちろん、それも大切な感謝です。
けれど、それだけではありません。
この一食が、私たちの目の前に届くまでには、たくさんの人や自然の力が関わっています。
まず、食べ物を育ててくださった農家の方。
その農作物を育てるために力を与えてくれた、太陽や雨、土、水などの自然の恵み。
そして、収穫されたものを運び、出荷する人。
店頭に並べる人。
それを購入する人。
料理をする人。
盛り付ける人。
そして、目の前まで運んでくれる人。
たくさんの時間と、たくさんの人の働きが重なって、ようやく今、私たちの目の前に食事があります。
だから、
「いただきます」
という言葉には、たくさんの「お陰さま」への感謝が込められているのです。
そして、食事とは、命をいただくことでもあります。
その命に感謝し、ありがたくいただく。それもまた、仏さまの教えにつながっていきます。
今日の施餓鬼供養も「お陰さま」であり、同じことではないでしょうか。
私たちが今、生きているということ。
この身体を授かり、今日まで命をつないでこられたこと。
そこには、先祖から続く長い命のつながりがあります。
だからこそ、私たちが生きている間に、先祖に感謝し、できる限り供養をさせていただく。
「自分一人で生きている」のではなく、たくさんの命とご縁の上に、今の自分がある。
そのことを忘れないことが大切なのです。
施餓鬼供養とは、餓鬼道に苦しむ霊を供養することでもあります。
そして同時に、
「自分さえよければいい」という自己中心の心にならないよう、自分自身を見つめ直すことでもあるのだと教わります。
「私が、私が」と、自分のことばかりを考えるのではなく、誰かのお陰で生かされていることに気づく。
そして、その「お陰さま」に感謝する。
それがお題目の心であり、蓮華が私たちに教えてくれることでもあるのではないでしょうか。
蓮の花は、自分の力だけで咲いたのではありません。
私たちも、自分の力だけで生きているのではありません。
目に見えるもの。
目に見えないもの。
人の力。
自然の恵み。
ご先祖さまから続く命。
そのすべてが重なり合って、今の私たちがあります。
だから、「お陰さま」という心を忘れない。
おごらず、感謝を忘れず、人のためにできることをする。
その積み重ねが、私たち自身の心を整え、仏さまの教えに沿った生き方につながっていくのだと思います。
境内に咲いた一輪の蓮。
その花を眺めながら、
「自分が咲かせた」のではなく、
たくさんのお陰さまによって、咲いてくれた。
そんなことを、あらためて感じさせていただきました。
合掌