彼女はいつも「ありがとう、」と言う。どんな些細なことにでも。
それは酷く繊細な心遣いにも見えるが、彼女のそれは厳格なポリシーからくるものだと私は知っていた。
それに対して私は、面倒とさえ思っていた。もし、この話しを彼女にしたら、また彼女と言い合うことになるだろう。
しかし彼女の言うことが道徳的なので、私の言い分は屁理屈にしか聞こえない。最終的に自棄になった私が辻褄の合わない理屈で彼女を言い負かしてしまうのだ。
私は口が達者だった。そんな私に言い負かされた彼女は普段のさっぱりした性格は消し去り、ねちねちと根に持つ。やれあのときは、という話がきっちり二週間は続くのだ。
彼女は、結構感覚的なものに頼る質だ、と私は思うがとうの本人も肯定しているので間違いではないだろう。
けれども、理系的な彼女は自分の、あるルールからはみ出したとき「違う感覚もある」というのを受け入れられない。ルールとは彼女の中の正義感のことだ。一方私は「違う考え方もある」というのを受け入れられない。
私たちはどちらも酷く「現実主義」で「完璧主義」なので、意見が対立すると悉く相手を負かすまで気が済まないのだ。
いや、それは私の場合だ。彼女は同意を得られればいいのだ。ならば私が、「そうだよね」と言えば済む話しだ。と人は言うかも知れない。私も、違う相手だったら苦笑しながらもそう言ったと思う。
しかし、彼女の場合そうはいかないのだ。己の未熟さを呪うが、彼女は私が話の中で折れると最後に、してやったりという表情をするのだ。それを見る度、私は彼女に恐ろしいほどの怒りを覚える。まあ、それも可愛いと言えれば私も大人になったなと思えるのだが、彼女の場合は本当にそうはいかなかった。
しかも私たちが通っている学校は寮である。四六時中顔を合わせる。そんな中、私たちはお互いを稀に見る“親友”と言えるものだと思っている。確かに気は合うのだ。
ただし、それは賭事にならなければの話だ。
私達の場合、勝ち負けの話しになると途端に合わなくなってしまう。どちらも負けず嫌いで頑固だからだ。
けれどもそれは、一途に負けられない!というものではない。美しい負けならお互いしょうがなく認めあうことができる。例えば、それはじゃんけんなどの運命的で自らではどうにもならないことなどだ。(これが美しいのかどうかは、ひとまず置いておこう。)
しかし、それ以外は“まずい”。こういう話しになると二人とも気まずいオーラが出るのだが、だからと言ってどちらかが折れて話を円滑に無かったことにすることは出来ないのだ。ここから冷戦が始まる。お互い自分の正義を貫こうとする。少し前に口論になったのは、死刑とは正しいのか正しく無いのか。という話だ。このことについて宗教論についてはそう簡単に人と話してはいけないと言うことが私の身に沁みてわかる。これについては休み時間の一時間を潰しても決着がつかなかった。私としては話を無かったこととして流すのは大変失礼、なことなので(というか、決着がついていないと関係的に気まずいのだ)その後も長くこの話をした。