生産とお金と分配と | 秋山のブログ

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商品やサービスの生産は価格によってその量を評価される。価格は均衡によって決まる精密なものであるという誤解が、多くの誤りのもとになってきたことは何度も書いてきた。また、投資(もしくは貯蓄)に関して、いろいろ混同されるもとにもなっている。そこで生産に関して、生産物を意識すべきという考えがあって、主流派経済学に異を唱えている人がそこを強調するのは少なくない。ここでちょっと生産物を意識してマクロ経済全体を考えてみよう。

生産物は全て人の労働によって生み出されると言っていいだろう。生産関数にあるように資本が人の労働とは別個に生産物を生み出すという考えは、おかしなことだ。設備は中間財の生産で人の労働による生産の一過程と見なし得るし、融資等の金融資産の投入はお金という道具を使って生産をつなぎ合わせるサービスと見なすことができる。そしてその方がずっと現実に近いモデルであろう。
このことから導かれる当然の内容として、人はそれぞれが生み出したものに対して生み出した分だけその対価を受け取るべきだということだ。もちろん、個々人の貢献度が生み出したもののうちのどの程度のものかは測りようがなく、また投資家らが実際の貢献度よりはるかにおおきな報酬をもらうなど偏りは不可避なので、公正な形での再分配は必要だろう。最大限(量だけでなく質も重要である)生産した上で、最適に分配されるというのが望ましいことは納得のいくところであろう。

しかしながら現代社会において、なかなか最大限生産することなどできない。古代食料の自給すら困難だった人類は、その後胃袋の限界を超える生産能力を手に入れ、2次産業に労働力を移行させた。しかしそれも需要飽和に達して、3次産業の率を増やしている。先進国は輸出品を買ってくれる外国を探し、他国の好況不況に左右される状況が続いている。収穫逓減による利潤最大点まで生産されて、需要はセイの法則でついてくる(利潤最大点までの生産のモデルはセイの法則を信じているということなのだが、それを表明すると印象が悪いため、昨今セイの法則について言明する人は少ない)などということは、全く現実ではないのだ。需要が足りないという現実があるので、EU等では凄まじい失業率があるし、日本ではブラックなワークシェアリングがおこなわれていたりする。(もちろん一旦需要が飽和して人が減った分野において、なんらかの不具合や需要増が起こった場合、急には対応できずにその分野で人が足りなくなることはありえる)

さてここで少子高齢化を考えてみよう。
子供や老人などは価格のつくものはあまり供給せずに、勤労世代から商品やサービスの分配を得ている。この構造が継続困難になるためには、総需要に総生産がおいつかなくなる必要がある。もちろん前述のような現状から判断する限り、日本の場合少子高齢化が他国に比べて著しいと言っても、足りなくなる可能性はない。老人養うだけでなく、今よりも多くの子供を産み育てる余裕もある。しかし言うまでもなく現実は、老人の介護負担が厳しく、子供を多く持てない状況に日本は陥っている。何がおこっているかは簡単である。子供や老人に分け与える義務を負っている一般家庭の取り分が少なくなっているということだ。重い年貢に苦しむ昔の農民を思い浮かべてもいいだろうし、国民を餓死させながら港には山程の輸出用食料のある途上国でもよい。生産が追いついても分配しなければ届くことはない。当たり前と言えば当たり前の話である。

この歪な分配を促進させてきたのが、投資家に操られた政治家によるプロパガンダと、新自由主義の経済学だ。トリクルダウンなど主張して恥ずかしくないのだろうか。もともと馬の餌を増やすと回りの雀が肥えるという話らしいが、これは外部からもたらされた餌による局所的な話であって、雀の食料を取り上げて馬にやっても雀は太らない。現実でも、労働者への分配を下げて経営者や投資家にまわしてもそうしなかった時に比べて、総生産量が大きくなることはない。有効需要が減るのでむしろ小さくなるだろう。新自由主義の経済学は、現実的でないモデルを作ったり、データの解釈を歪めたりして、それの後押しをしている。数式を使ったやり方は経緯を見れば物理学を表面的に模したもので、実際は経済を扱うには向かない全く間違った方向性であるのだが、単なる印象でそれで正しいように勘違いしてしまう人間も少なくないだろう。また、人を騙すための数式は複雑で、理解解析する能力を持っている人間は少ないだろうし、問題点を指摘できる人間はもっと少ないだろう。能力を持っていても、それをする労苦に時間を費やす人間は多くないわけで、そんな少数の人間とは議論もせずに、無視をきめこめばいいというのが戦略なようだ(新古典派に賛同するダメ経済学者は解析レベルの能力をもともと持っていない可能性がある)。内外に問題を指摘する経済学者は何人もいるが、具体的な論争にはならずに(以前は多くの論争があったようだが、されなくなってきている印象であるし、論争の結果は無視されている)、彼らは印象操作的な批判に曝されているように見える。そしてその戦略は成功して、ピケティの言うような格差の拡大、すなわち持てる者のrへの配分の増加、分配の失敗があるのだ。