洗脳と均衡 | 秋山のブログ

秋山のブログ

ブログの説明を入力します。

やきそばへのゴキブリ混入事件というのが昨今あったが、ネット時代においては、その情報が嘘であれ本当であれ、売れ行きに大きな影響を与えるために、その対応は重要である。そこで取り上げられたチロルチョコの事例が実に興味深かった。
虫が入っていたという話に対して、工場で入ったものではないという弁明をおこなうのではなく、〇月〇日最終出荷の商品であること、虫は孵化後1ヶ月以内の虫であることのみ記述した。つまり読んだ人が工場で入ったのではありえないことを気付かせる内容なのである。
この解けた感は大きい。誰かに言われたものではなく、自分で気付いたものは、それが正解であるということに関して強く印象付けられるだろう。

何に関して言っているのかといえば、経済学における均衡のことである。例えば価格を例にとれば、通常価格を決める要素は多々あり、また販売量を決める要素も多々ある。それぞれの要素は互いに独立しておらず、本来解をもとめることなどできないはずのものである。
数学的に表現するならば、莫大な数の変数があるが、それぞれの関係等をあらわす方程式が全く足りないという状況である。
経済学は足りない式を補うために、均衡するという仮定を導入したり、一部の変数を単純な確率で変動する一定の値に置き換えたりした。そして解を出して見せたのである。解がでているのを見て、多くの初心者はその理論が正しいものであるように錯覚する。適当な数値を与えられて解いてみたりもする。信仰のような均衡に対する盲信はこんなところから生れたのではないかと、チロルチョコの事例のニュースを見ながら考えた次第である。

では、どうすればいいのか。このままでは永遠に経済学は役立たずではないのか。そんなことを考える人がいるかもしれない。しかしそんなことはない。経済学は、そこに存在する愚かな誤りに騙されてさえいなければ十分実用にも耐えうるものだ。
経済と同じように不確実なもの、多くの要素があるが解くための式が全く足りないものとして、人体の例を出して説明してみよう。例は、よく例として出す塩分摂取量と血圧の関係である。経済の多くの要素と同じように、血圧にしろ、塩分にしろ、多くなった時には下げるような機構を人体は持っている。それを持っている程度で均衡すると仮定して、何か他の要素が出たら、曲線をスライドさせればよいのか。そんなことをしても意味は全くない。実用性がないのである。血圧のコントロールをまず塩分摂取量によっておこなおうとする時、実際に試して結果を見ながら微調整するしかない。効かないならば別の原因を調べてみる。そういう泥臭いやり方しかないのだ。
経済学の理論に則って何か政策をおこなう時は、常に間違いであった場合を想定して、すぐ対処できるように準備しておくのがよいだろう。想定外のことが起こったときは、理論を正当化するためにいい加減な理由を探してくるのではなく、原因を修正することによってそれが原因であったことを確認することが重要だろう。それが出来なければ、想定外のことがおこった理論は正しくないものとして扱われなければならない。
経済では実験してはいけないといった主張もしばしば見られるが、現在おこなわれていること自体、確かでもないことを試している、つまり実験である。ところが実験であることを認めないから、理論の進歩もなければ、不具合を修正することもないのである。全く愚かなことである。