ステグリッツ教授はかく語りき(給与) | 秋山のブログ

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以前からこのブログでは労働者の給与の低さの問題点を指摘していた。ステグリッツ教授も中下層の給与が下がっていくことの問題を多く指摘している。
ところが、この書籍では、高い給与に関しても多くの記述がある。素晴らしい視点であり強調したい。

まず、高い給与の巷にあふれる根拠。P167にあるように、「高給の労働力はおおむね効率的であり、したがって高価な労働力ではない」という効率賃金説によるもののようだ。
P232
『企業のCEO、特に金融部門のCEOは、自分たちの高給は社会に大きな貢献をした成果だから正当化できると主張してきた。このような貢献を続ける意欲を持つには高給が必要だということを、他人に(そして自分自身に)納得させようとしてきた。』

そんなものはまやかしであるということについての説明。
P70
『上位1%を構成している人々の大多数は、偉大な社会貢献によって報酬を得たわけではなく、わたしたちの世界観を一変させた偉大な思想家や、わたしたちの経済を一変させた偉大な発明家はそこにはふくまれていないのだ。』
P62
『過去数十年間でCEO職全体の生産性が、平均労働者と比べて劇的に跳ね上がったため、二〇〇倍以上の格差は適正であるという主張も聞かれるが、三〇倍から二〇〇倍に跳ね上がったとはとうてい信じられず、じっさい、好調なアメリカ企業のデータでさえこの主張を裏付けてはいない。』

著しい高給にありついている人間は、少なくない割合で、政治家に働きかけたり、法律の抜け道を探してその報酬にありついている。全体に対する貢献でその報酬を得ているのではなくて、別の誰かの富を奪うことでその報酬を得ているということだ。そしてそのような行為は、全体としてマイナスになる。
P88
『富の分配で上位を占める人々の成功をくわしく見てみると、彼らの才能の決して少なくない部分が、市場支配力や市場の不完全性をぞんぶんに利用するには、どんな仕組みをつくり上げればいいかという点に注がれているのがわかる。』
P159
『一昔前、優秀な若者たちは多種多様な職業にひきつけられた。。。(中略)。。。金融業界を選ぶエリートの数は増える一方だった。才能あふれる若者が続々と入ってくれば、金融セクターでイノベーションが起こるのは不思議でも何でもない。しかし、”金融イノベーション”の多くは、規制をかいくぐる目的で開発され、じっさい、経済の長期的な成果を減少させた。』
GDPの話で効用が必ずしも金額と比例しないことを書いたが、同様に、得た金額に比例して社会に貢献があったわけではないことに留意する必要があるだろう。弱みにつけこんで、独占等によって、かなり高い価格を何かにつければ、高い収益を得ることができるのだ。質でも量でもよいが、単純に金額ではなくて、どれだけ本当の生産性が向上したかが重要である。

最後にもっとも重要なこと。
P135
『誰かひとりの社会貢献を、ほかの人々の貢献と分離することはできない。。。(中略)。。。二〇〇九年、ガー・アルペロヴィッツとルー・デイリーは、「もしも、われわれが手にしているものの多くが、何世代にもわたって蓄積された歴史的貢献から、無償の贈り物としてもたらされるのだとすれば、現在においても未来においても、どこまでを一個人の”稼ぎ”と合理的に認定しうるか、という深遠な疑問が生じることとなる」と結論づけた。』
P185
『おそらく、わたしたちが最も重視すべきものは、誰ひとりでは成功できないという点だろう。途上国には利発で勤勉で活動的な人々が多くいる。彼らが貧困層から抜け出せないのは、能力や努力が足りないからではなく、うまく機能していない経済の中で働いているからだ。』
P240
『一部のグループ(豊かなグループも貧しいグループも含まれる)では、豊かな人々は主にみずからの勤勉さによって富を獲得してきたのであって、他人の貢献や幸運はささいな役割を果たしているにすぎないと信じられている。別のグループは、まったく正反対の信念を持っている。もっともなことながら、これらのグループは税制政策についても異なる見解を持っている。もしある個人がいま持っているものは自分の努力のみによって得た成果だと信じていたら、その人はあまり努力しないことをみずから選んだと思われる他人と、自分の富を分かち合おうとは思わないだろう。逆に、もしある個人が、自分の成功は主に幸運のおかげだとみなしていたら、その幸運がもたらしてくれた財産を進んで分かち合おうとするだろう。』
自分にとって得だ損だという観点ではなく、どうしてそうすべきなのかという明確な理由がそこにあるだろう。私もまた幸運に恵まれた一人に過ぎない。