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「真理探究中です。」

嗜好品のようなブログを目指します

こんばんは。

とらじろうです。

久しぶりの更新になってしまいましたが、その間も良い議論ができていたのに記録ができなかったことが悔やまれます。

 

なんだかんだ3月に入り、出会いと別れの季節となりました。

小田原では河津桜が綺麗に咲き誇り、本当に春を感じさせてくれます。

(年度末が迫っていることに同時に冷や汗もかいておりますが)

 

さて新しい季節には、新しい選択を場面も多いのかなって思います。

選択するとは大変難しいものです。

 

こんな論点が先日出ました。

 

「頭では今のままでも良いとわかっているけど、心ではリスクはあるがやってみたい。こんな時どちらの声に耳を傾ければ良いのか?」

 

これは大変面白いテーマであると思います。

私自身もこの時特に答えらしきものは出ませんでした。

出した回答といえば、「なんだかキリスト教徒の科学者ぽい状態だね。」という脈絡のないフレーズだけでした。

 

一応回答の趣旨は、科学と宗教って対立関係ではないってことを言いたいわけです。

科学は世界の起源を知る試みです。

近代以前はすべて神が作ったものとされていました。

しかし科学は、理性を駆使してあらゆる知識や技術を生み出して、神を殺してきたわけです。

 

しかしまだまだ世界には不思議なことがたくさんあります。

そこはまだ神の領域ということです。

つまり世界を知るには、理性というロケットと信仰というロケットで飛ぶわけです。

 

だからキリスト教徒の科学者は神について、「頭では理解できないが、心では到底及ばないものと信じている」という感じにコメントするわけです。

 

頭と心に別々に正しい答え・信念が生まれている状態に、どのように折り合いをつけるのか。

 

まず近代人の大原則は、合理的に理性を働かせることが求められます。

しかるに、リスクがあるとわかっている心の声に傾けるべきではないと言うことができます。

 

しかし一方で合理的という言葉は定義が難しいものです。

心理的効用を含むとすれば、心で臨んでいることを選択しないのは後悔につながり、それは合理的とはいえないのではないか、とも言えるわけです。

 

心の声に誠実に従うべきであるというのは、直観の科学でもその効果を示されています。

要するに心の声というのは、自分の脳が、自動的に経験や性格、知識を総合的に計算してはじき出した答えなわけです。

それを科学的には直観というわけです。

 

直観って案外当たるよね、という経験則はここからきているわけです。

ここで哲学的議論をするならば、人間に自由意志はあるのか、ということになります。

結局脳による自動計算ならば、人間は考えているようで考えていないということです。

 

心の声に誠実に従うことで失敗することもあります。

それはアルコール、タバコ、浮気などのことです。

だいたい往々にこれらで失敗する人は「頭ではわかっていた」と言います。

 

人間はわかっていても失敗するという経験則がここで示されています。

「なんかダメそうだけどやっちゃおう」というのは案外危険な一面、人間の易きに流れる習性もあるわけです。

 

ここで近代人はいうわけです。

人間は理性的であるのだから、こうした心の声は制御しなければいけないと。

 

でも内なる心の声は、神の声であり、それは唯一、神とコミュニケーションを取ることができる人間の能力であり、それを理性とも捉えられていた時代もありました。(中世ヨーロッパ)

この考え方に立つならば、心の声には理性的なものであり、聞くべきともいえます。

 

理性を使って答えを導くのか。

理性を使って心を制御するのか。

 

ここまで右往左往に論点をばらまいてきましたが、このテーマを持ってきた彼は価値創造をしたいとよく言っていました。

価値創造の哲学といえばニーチェです。

私も最近は「それは美しくないな。ルサンチマンにはなるな。良いものは良いから良いのだ。」と口癖になり、ニーチェイズムに浸っているので、ニーチェとともに結論を出します。

 

ニーチェは大きな物語や目標のない世界の生き方では永劫回帰を提唱します。

永劫回帰とは、「これが生きることか!ならばもう一度!」と肯定的に人生を受け止める生き方です。

なぜ良いとされているのか。

それは自分で自分の人生・価値観を生きているからです。

 

この時代は昔と違って終身雇用も崩壊し、成長する日本という大きな物語も失いました。

だから選択が迷うわけです。

なぜなら既存の価値観がなくなったからです。

そんな時代は自分の価値観で生きることが求められております。

 

でもニーチェはそんな時代が来ると予言もしていたし、そんな時代の生き方をすでに紹介していました。

そこが彼の凄いところです。

 

もう一度自分の人生をすることになっても「これは良い!」と言える選択こそニーチェの言う「良い選択」であり、それがニーチェの言う「超人」というわけです。

 

さてさてどんな哲学的視点に立つかでこの論点の答えの出し方は人それぞれでしょう。

そこがこのテーマの悩み深いものわけですが、、

 

いづれにしても自分で自分の価値観でこれだ決めたことに責任を持って生きることはどんなことでも美しいものです。

美しく生きることが良いことですからね。

 

それではまた。

God bless you.

 

こんばんは。

いつもぼやいてばかりですので、たまにはハッピーな話を一つ。

 

おとといの日曜日、久しぶりに後輩くんと会いました。

年末には、仕事を辞めるなんて言ってたから心配も含めて会いましたが、元気そうで安心しました。

 

この時は、もう一人遅れてくるスケジュールだったので、空き時間に何するかという話になりました。

珍しく後輩の方が、「あ、じゃあSOGOに行きたいです」と言うので、何か買い物でもするのかなと思いましたが、特に何も対案もなかったのでSOGOに行きました。

 

「いやあスイッチ欲しいんすよね」とか言うので、「それならヨドバシがいいだろ(笑)」とか言いながら、向かった先は、「MARLAGE FRERES」というフランスの有名な紅茶屋でした。

 

「いい趣味しているじゃん!」とからかいながら、「先輩は普段何飲んでます?」と聞いてきたので、「English Breakfast Tea」と答えたら、「じゃあ俺もこれにします」と言ってレジに向かいました。

 

2年前にフランスに卒業旅行行って、その時にこの紅茶にハマったらしく、「フランスの方が安いじゃねえか」とか文句言いながらレジを終えていました。

 

「自分用なの?それとも誰かに贈るのかい?」

 

そしたら、「はい、先輩にあげます。誕生日っすもんね。」と渡されました。

 

最初はなんか恐喝したみたいですまんよっと言って返しましたが、1ヶ月遅れの誕生日プレゼントもらえました(笑)

 

こんなにもニーズを満たしたプレゼントの渡し方ってあるのかよ!って心から感動しました(笑)

こんなことなら、ちょっと香りが気になっていた「ロシアンティー」と言えばよかったとか思いましたが、後輩の粋な計らいに、ハッピーな思いになりました。

 

俺も負けじといつまでも粋な先輩でいなければと身が締まる思いです。(この気合いが粋じゃないですが)

 

それでは、また。

 

God bless you.

 

 

 

 

今日は「共感力」について、記録したいと思います。

 

最近自分の中でキーワードになっております。

なぜキーワードになっているかというと、それが足りない人間だし、共感力ない人の方が親和性があるということに気づきました。

 

ではどこで共感力足りないと気づいたかというと、他者からの指摘でした。

 

よく言うじゃないですか。

大概の話は、「共感を求めているだけで解決策を聞いてはいない」という茶番のようなコミュニケーション論。

 

こっちもちょっと聞いてよ、言わればこちらも「どした?」と聞く姿勢になって、相手の話を聞きます。

そして相手の話を聞くと、「こんなことがあって、こんな風に困っているんだよ」と言う。

「うん、なるほど。経緯と現状の課題はわかった。じゃあどうしたいの?」と言いますよね。

 

そうすると、「いや、そういう話じゃなくて。」と言われる。

 

こちらとしては、「じゃあなぜ話す、そんなものはツイッターでやってくれ。」と内心で思ってしまうわけですが、このエピソードを友人に話したら、「共感力無さすぎだろ」と言われた次第です。

 

「え、じゃあこんなときはどうすればいいの?」ってその友人に聞いたら、「そっかー。大変だったね。」とか言えばいいんだよって言ってました。

 

それって「共感力なのか!?むしろ適当に返しているぶん、もっとタチが悪いじゃん(笑)」と思いました。

 

基本的な価値観として、「変えられないことには悩む必要もない」という「課題の分離原理主義者」ですので、「困っているんだよね」と言われれば解決の道を探るべきだし、どうしようもないことなら、「じゃあなぜ悩む?」という疑問になるわけです。

「共感して♫」だけで話を進められても、いまいちピンとこないってことが多いです。

 

ちなみになぜだか共感力がない人って、職場では意外と「パワハラ気質」みたいな扱いされている人多くて、かわいそうなのですが、そういう人って、確かに「それはなぜ?」とか詰めがちなのですが、それは人格ではなく話そのものに興味を示しているだけです。

だから誤解されているなって思います。

 

意外と自分はそういうタイプの人の方が、話も合うし、何より早く話が進むから好きなのです。

なぜなら回りくどい感情への配慮がなくて済むので、理路整然と話をすれば案外頼みごと聞いてくれるからです。

 

でもちょっと思いました。

 

「もしかしたら自分はパワハラをする危険性あるな。いやむしろ現在進行形で誰かを知らず知らずに詰めているかもしれない」

 

こんな危機感を覚えました。

 

最近は、児童虐待の残虐なニュースがありました。

このニュースに限らず、「こういう悪い奴は自分とは絶対関係ない。イかれているだけだ。」と他人事にしがちです。

 

でも実は人間、アイヒマン実験等で証明されているように、誰でもユダヤ人大虐殺などをしてしまうような「悪」になる可能性を秘めているわけです。

しかもそれは「悪」と自覚なしに行うことがしばしばです。

 

まずは誰しも悪になる可能性がある。

この自覚は重要なことであると思います。

 

さて、共感力がないことは悪なのか。

これについては継続的に議論を要すると言うことで、本日の結論としたいと思います。

 

それでは、また。

 

God bless you.

 

 

書評サイトを立ち上げるにあたって、改めて「読書家」というアイデンティティを守るために、あの世界的ベストセラーの本をちゃんと読んでいないとは如何なものか、と読んでみました。

 

それは、「聖書」。

 

彼らのバイブルです。

 

ただね、読んだ結果、「うーん。これは書評することはできない(笑)」と思いました。

だってそれを論ずるということ自体が、ちょっと違いますし、読んでくださいというのも立場的に違うということで、書評サイトには掲載を控えました。

 

でもせっかく読んだのに、読んだ感想は誰かに伝えたいので、ここでは率直に言おうと思います。

 

まず旧約聖書の方は、まさに神話。

世界がどうやってできたのか。

そしてユダヤ人の歴史書です。

聖書にあるように、彼らは何度も迫害されながら「約束の地」を目指すわけです。

 

そして新約聖書。

こちらも迫害され続けるイエスキリストとその弟子たちの物語です。

とにかく弟子が「師匠、これについてはどう思います?」というと、キリストは「愛が大事やねん」的なことを言うのです。

 

弟子たちも「師匠、本当にそれでいいんっすか・・・」って、「愛」が深すぎて甘い対応じゃねえか?って弟子たちも思うわけですが、「さすがは師匠です」で終わるわけです。

有名な話ですが、打たれたら、もう一方の頬を差し出すですから。

 

あと新約聖書の随所に出てくるのは、キリストさんの「とにかく私を信じれば救われる」というエピソードがあります。

 

とにかく「愛」「キリスト信じよう」この2つのわかりやすいメッセージをひたすら繰り返すわけです。

そしてやっぱり迫害されているというのがポイントです。

 

ユダヤ人の旧約聖書は、やはり彼のストーリーなわけですから、あんまり世界的に広がらないけど、息は長いわけです。

それはずっとユダヤ人は迫害されているからです。

逆に彼らは迫害された分だけ、強い結束をこのストーリーに求めるわけです。

いつかは自分たちは約束の地に行って、救われると。

 

キリスト教の方は、もっと単純です。

迫害されたら「愛とキリストを信じる」です。

キリストは人類の罪を背負って行った存在だからこそ、いつか復活してキリストを信じるもののみ救われるというストーリーです。

 

現実世界で迫害されても、「こんなにひどい目にあっても、きっと私たちは救われる!」とより一層、こちらも迫害が信仰を強くするわけです。

 

両者をざっくり言えば、ネガティブ事象に対して強いメンタルを持つ宗教ということです。

これがきっと2000年の歴史を持つ伝統宗教のパワーです。

 

仏教もそうですが、長持ちする宗教って、ネガティブを「これは神の試練だ!」的な強いマインドセットな教えがあるように思えます。

 

つまりですよ、やっぱり宗教がなぜあるかって考えると、現実はやっぱり結構辛いことばかりで、救いを求める人って、時代を問わずいるってことですよね。

 

そういうネガティブなことを、哲学・スポーツ・芸術・経済活動・家族などで克服する方法もありますが、宗教も結局その方法の一つ担っているのだと思います。

いわゆる社会装置として。(こういうことを言うと「信仰だ!」と怒られるのですが)

 

聖書を読んで、改めて「うーん俺は誰かの教えを信じるより、理性を信じたい」と思ったのと、「これは信じるのも無理はない」と言う両方の感情を持ちました。

 

ちなみに聖書は、西洋美術や映画を見る上でも役には立つので、宗教とか関係なく、教養として読んで見るのはオススメです。

 

それでは、また。

 

God bless you.

 

 

 

 

こんばんは。

 

12月ごろから2019年の目標の一つとして取り組むことを宣言していた書評サイトについて、本日はご報告します。

 

ついに本日より公開いたしました!

下記URLよりご覧いただけます!

http://book-harbor.com

 

サイト名は、「ブックハーバー」といたしました。

サブタイトルは、「働くあなたの本の港でありたい」です。

 

ハーバーという単語については、貿易港横浜の地に住み始めたこと、そしてなんかサザンオールスターズの歌詞感あるよね、という理由で使いました(笑)

 

サイトの詳しいコンセプトなどについては、「このサイトについて」【http://book-harbor.com/このサイトについて/】をご覧いただければと思います。

 

さてこうして好きなことの「読書とネットライティング」を生かして何かやりたいという思いから、サイトを立ち上げることができました。

 

ネットライティングについては、この場所で4年間活動できたことが私にとって大きな自信になりました。

改めて皆様に感謝申し上げます。

 

そしてこのサイト立ち上げに全面的な協力をしてくださった、Y氏の存在を差し置くわけにはいきません。

Y氏とは、「働く哲人」というサイトを共同して行いました。

残念ながら昨年の9月で私は「活動停止」にしていますが、今でも「働く哲人」は、多くのゲストライターと、Y氏の貴重な仕事術が記録された素晴らしいサイトになり生まれ変わって活動しています。【http://work-philosophy.com

 

Y氏とはサイト以外でも交流を深めており、今回はその中の一環で全面的な技術協力をしてくださいました!

改めてこの場で感謝申し上げます。

 

今後においても、私の「ブックハーバー」がより大きなサイトとなりましたら、コラボ企画などを通じて相互交流を図っていきたいと思います。

「ブックハーバ」の理念は、やはりあの時の「働く哲人」と変わりません。

 

哲学で誰か救えたらいい。

 

それを書評という形で、いろんな分野・角度から「とらじろう」のコメントを残していきたいと思います。

 

そういう意味では、この「真理探究中です」も同じ理念です。

 

なんかくだらない日常シーンを記録して、誰か救われればいい。

 

今後も皆様におかれましては、この「真理探究中」そして「働く哲人」、今回オープンいたしました「ブックハーバー」へのご支援何卒よろしくお願いいたします。

 

それではまた。

 

God bless you.