1週間後すら見えない世の中で | 「真理探究中です。」

「真理探究中です。」

嗜好品のようなブログを目指します

7月に入りました。つまりは2017年も考えてみれば半分が終わったということになりました。当ブログもそれに伴い2年と6ヶ月目を迎えているわけですが、逆に2年半前に今の自分の姿が想像できていたかと言われると、全くですね。

 

まあ職もそうですが、人間関係、趣味など、全くもって予想はできていなかったです。

(こんなことをしている、こんなことに興味がある、こんなやつとつるんでいる等)

 

さて、私の業務内容の中で人事研修関係が主なものですが、心苦しいのは、「5年後の自分を思い描く」という趣旨の未来予想図です。

 

ぶっちゃけ自分は思い描くことができません。

こんなにも移り変わりが早い現代社会において、1つのところに5年先にもいるという保証、また情報もたくさんある中で興味関心も常に変化する可能性は大いにあります。

 

「やりたいこと」のために逆算して、これをやらなくてはいけないという、ある種の未来の自分との契約は少しばかり風通しが悪いものです。

 

「これこそ我が人生かけて、やりたいことなのだ」というものがあれば、話が別だとは思うのですが、残念ながら長期的な見通しを持って生きていけるほど度胸のある人間ではないです。

 

予想することができない社会だからこそ、今の心のままにという生き方を基本的に取っているわけですが、ここでも留意点があります。

 

「今が楽しければいいやー」というある種の刹那的な生き方です。

どこか空虚ですよね。話して深みのない人になりそうです。

 

ここからが論点になるわけですが、「どこまで未来予想図を描き、どこまで心のままに生きるのか」、いわゆるこの線引きです。「計画とはどこまで立てるべきか」とも言えるかもしれないです。

 

計画の問題は、民主主義でも言えますよね。

例えばどんな市町にも「○○市まちづくり○年計画」という政策の中長期のパッケージがあります。

 

さてこれが決まると基本的にはそれ通りに計画は執行されますが、

その時の民意が未来の人間を縛っていいのでしょうか。しかし一方で、無計画にその年によって政策を実施することも、これはまた違う問題が出そうです。

 

旅行もそうですよね、計画の立てすぎはなぜだか忙しくてつまらない。でも無計画もこれはまた疲れてつまらない。

 

まあ要するに個人の生き方も、民主主義も、「どこまで未来に縛りをつけれるか」というのは、非常に重要な論点な訳ですよね。

 

まあ答えは、バランス、哲学用語で言えば「中庸」ということになるのでしょう。

しかしこのバランスをめぐる試行錯誤こそが、人生と言えるのかもしれませんわ。

 

ほんとに、1週間後のことすら予想できない世の中です。