「母、母性」について | アンドロギュノスの恋

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皆さんこんばんは。

 

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今夜もまた、連載の終わった物語の、語りつくせぬこと、ぶちぶちと(^^ゞ

 

小説『もし、それが真実ならボクは……』

 

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今日は、物語に登場する「母親」像、そして「母性」について。

 
ここで聖母を持ち出すと叱られるかも

 

私は物語に登場させる母親にロクな母親を描いたことがありません(笑)

 

「ボクの選択」では、息子のヨメに辛く当たる鬼姑として、「青く澄んだ空の下で」では、空回りする田舎の教育ママとして、「ラギ〜Lagi〜」の中では夫との死別後、わずか一年足らずで夫の元部下と男女の関係になってしまう母親として、そして、今回は正義を振りかざし近寄り難いところのある、さっさと再婚して家を出てしまった母親として描いています。

 

なぜか、憎まれ役として母親を登場させてしまうので、私の実の母親もどこかこういうところのある人物ではないかと思われるかもしれませんが、彼女の名誉のために、そんなことはございませんのでご安心を(笑)

 

では、なぜそういう母親像を描いてしまうかといいますと、それはやはり母性に二面性を感じるからだと思っています。優しさと束縛。優しいからこそかえって相手の心理を束縛してしまう、といいましょうか。この相反する側面に別々に光を当てると、母親、母性は一般的なイメージと違ったように見えるのではないか、そう思ったのです。

 

温かな絶対的庇護者である母親は、知らず知らず子供を束縛しがちです。優しく温かな存在からは誰も逃れられないですからね。でも、これが時に桎梏となる。逃れたいけど逃れられないもどかしさや苛立ちの原因となる。

 

時々、母親は自分が子供に対して持っているこの絶対的なチカラに気づいているのかな? と思うことがあります。本人は自覚していないし、そんなつもりもないのでしょうが、子供は結構母親の顔色を伺い、母親の意向に沿うように振る舞う。今回描いた母と子の関係はそういうものです。

 

子供は自然の感情として母親を慕う。言葉でいくら反発しようと、心の底では常に母親を慕い続ける。子供が思春期に母親への反発を強めるのは、この気持ちに抗えない自分を疎ましく思うからで、母親自身に向けられたものとは違います。そこは父親に対する反抗反発とは随分異なりますよね。

 

極端な例ですが、ご飯食べた? 暖かくして寝なさいよ、という言葉ですら、子供にとっては時に鬱陶しい(※こともある)。その言葉の中に、逃れられない母性の束縛を感じるからではないでしょうか。

 

そう思うからか、物語の中ではあえてイヤな母親を登場させてしまいます。母性の優しい側面を削り取った母親、子供との距離感の遠い、時に母親本人が身勝手であるような存在として。

これは、母と子の距離の難しさを私なりに表現しようとしているのですが……

 

あ~、今、全国数千万人のお母さんを敵に回したかな(;´д`)トホホ…

母性のある一面を切り取っただけのことですし、優しいお母さんはみんな大好きですからね…… って今さら遅いな(笑)

 

 何事もない平和な9.11が無事に終わりますように。