俳句の源泉は連歌にある。 レンガではない。

 平安以来、教養人が集まり語韻だけではない内容まで含んだある種しりとりゲームのようなものを楽しむとき、遊びとして成立させるに不可欠だった語数や内容にわたるルールが、後世独り歩きして権威的制約となったのが現代における俳句なのだと想像する。 たとえとして適当かはわからないが、ラグビーがバウンドの予測がしづらい楕円のボールを採用したり、ボールを前に投げることを禁じているのと似ているかもしれない。

 

 成り立ちからしてある程度の制約はやむを得ないと思いながら、昨近TV番組が出演する芸能人たちに段位級位から果ては永世名人なる称号までを付与するなど、ある種奇態なブームを生産し、さらなる権威を構築するかのようなありさまを見ると、ついつい俳句というカテゴリに対して攻撃的言辞を弄したくなるのである。

 

 あえてカテゴライズという定型的な手法をとる危険を冒せば、文章表現の中で最も制約から遠いのが、自由詩を源流とするいわゆる「現代詩」であろう。 俳句に求められる字数の制限もなく、小説に必須の論理的整合性も必要ない。 ただ心の赴くままに単語を連ねていけばよい。 表現とは、そういうものだ。 どこかの権威にガイドレールを設置してもらい、それに沿って転がっていくのはそれに満足する者たちに任せておき、自由な詩人は、真空漆黒の宇宙に向け表現欲の導火線に点火すればよいのだ。もし自由な詩人なるものが存在すれば、のことではあるが。

 

 表現者にとって、束縛からの解放、自由度の拡張は生得的に課せられた根本課題であるかもしれない。 そう考えると、表現者の中から多くの反体制思想家が産まれたのも深く頷けることではある。

 

 と、尻切れトンボで終わることにする。

 

おしまい